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映画鑑賞記録
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観賞日 2010年11月13日(土)
場 所 銀座テアトルシネマ
監 督 ジュリー・ロペス=クルヴァル
制作年 2009年
制作国 フランス・カナダ
原 題 Mères et Filles

この50年で女性の生き方は大きく変わった。それはフランス女性であっても、日本女性であっても同じだ。50年前はまだ女性が職業を持つことも、自分の意思で人生を決めるることも難しかった時代だ。今は、女性が職業を持つ事は当然だし、結婚も子供を産むことも女性自身の「自由」になっている。家族の在り方も変わり、人生に対する価値観も変化している。この映画は母・娘・孫娘という三代の女性が抱えた自立と家族関係の葛藤を通して、女性の生き方の変遷を考えさせてくれる作品だった。

かねてからフランス映画の魅力は、俳優・女優陣が実に自然な人間であることだと思っている。往年の美人女優、カトリーヌ・ドヌーヴにしても、マリナ・ハンズにしても、ハリウッド女優のような磨き抜かれたボディではなく、いかにも自然な人間の体をしている。
シェルブールの雨傘や昼顔で輝くようにパーフェクトな美貌を誇っていたカトリーヌ・ドヌーヴだが、今は年齢相応の豊満な肉体や、中年にさしかかりつつあるちょっとたるみが出始めたマリナ・ハンズの後ろ姿も、すごくいい。フランス映画では、たるんだ肉や顔の皺やシミさえも、その人物が生きている証のように見える。だからこそ、スクリーンに映し出される光景が、リアルに感じられるし、自分自身の人生とも重ね合わせる事ができるように思う。

母と娘というのは、同性だからこそ、互いに引き合いもし、反発もするように思う。ましてや、この数十年の女性の地位の大きな変化は、時には母と娘の間に越え難い壁を作ってしまっているかもしれない。それでも、女性として、その時代、時代の中で一生懸命生きている事に変わりない。その事にお互いが気づけたら、越え難いと思われた壁が崩れることもあるのかもしれない。


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観賞日 2010年10月16日(土)
場 所 ル・シネマ
監 督 スティーブン・フリアーズ
制作年 2009年
制作国 イギリス・フランス・ドイツ 

ベル・エポック=良き時代=と呼ばれた19世紀末から20世紀初頭のパリを舞台に、元ココット(高級娼婦)レアと同僚だったマダム・プルーの息子フレッド(作中ではシェリと渾名される)の愛を描いたもの。

40代後半のレアと19歳のフレッドの年の差カップルの愛がどんな過程で成立し、結末を迎えるのか、予告編を見て興味深々だったのだが、予想していたような波乱万丈はなくて、どちらかと言えば淡々とした印象の映画だった。ラストに至っては、なんで?という展開。原作を読んだ事がないので、このラストについて何とも言い難いのだが・・・・。

目の保養には大いになった。主役のミシェル・ファイファーの衣装はとてもきれいだし、アール・ヌーボーを再現した部屋の調度などもとてもよかった。シェリ役のルパート・フレンドもアンニュイなハンサム・ボーイで良かった。ルパート・フレンドは1981年生まれと言うから、撮影時28歳か・・・。19歳にしてはちょっと老けた感じだが、ラストはちょうどシェリと実年齢がつりあっているところだろう。年上の女に甘やかされた美青年のヘタレぶりがぴったりだった。ルパートの背面オールヌードシーンがあるのだが、優男っぽいのに西洋人てやっぱり日本人と骨格の基本が違うんだなあ~としみじみ見入ってしまった。皮膚の質感とかも違う気がするんですよね。

題材が題材だけに、ベッドシーンもそれなりにあるのだが、艶めかしさや濃厚ななまなましさを感じられなかったのはなぜだろうか?別にそういったものを期待したわけではないが、あまりにあっさりしているのも面白くない。

主人公2人よりもむしろ、シェリの母親マダム・プルーや、元同僚ココットの老婆たちの方が強烈な存在感があっておもしろいとさえ思ってしまう。

目の保養にはなったけれど、きれいすぎて物足りなかったように思った。
台詞が英語と言うのが雰囲気をいまいちにしたのかもしれない。英語よりこういう映画はフランス語の方があうような気がする。

私はやっぱり自分の息子と同じような年齢の男と恋に落ちるなんてまず無理だろう。青臭くて甘ったれた男は好みではないのだと自覚した。まあ、若い坊やは目の保養で十分であるなあ。

鑑賞日 2010年10月3日(日)
場 所 ユーロスペース
監 督 ウケ・ホーヘンダイク
製作年 2008年
製作国 オランダ

8月に封切られて、見たい見たいと思っていた。8日までの公開ということで滑り込みセーフ。普段見られない「内部」とか「裏側」見せます!的なものが大好きだ。今日もわくわくしながら渋谷にむかった。

いやあ、とんでもないドキュメンタリー。これが、フィクションではなく、現在進行形で起きている現実だなんて、すごすぎる!こんな映画を撮った方もすごいが、撮らせた方もすごい。

題名の通り、これは2004年に始まった「アムステルダム国立美術館」の大規模改築工事についての記録なのだが、その工事は当初2008年に完成する予定だった。ところが、2010年の今も工事は続いている。つまり工事が大幅に遅れているのだ。なぜ、工事が遅れたのか?その原因がこのドキュメンタリーのテーマの一つだ。オランダは日本では風車とチューリップの国として有名だが、美術史史上ではフランドル・ネーデルランドは北方ルネサンス中心地であり、17世紀バロック芸術についても大きな位置を占めている。ヤン・ファン・アイク、ヒエロニムス・ボス、ブリューゲル、ルーベンス、フェルメール・レンブラントなどなど、重要な画家が目白押しだ。そうした画家達を輩出した背景には、海運で栄えたオランダの富があった。アムステルダム国立美術館はそうした美の遺産を擁する世界でも屈指のものなのだ。
その改修工事となれば、国家の一大プロジェクトである。更には、理想の美術館を実現するべく館長以下スタッフは真剣に討議を重ね、満を持して計画を発表したのであるが・・・・、思ってもみなかった地元民の反対から、計画に狂いが生じ、その影響はとどまることを知らず、工事は延期による延期を重ね、計画の2008年に完成するどころか着工することさえままならぬ状態にまで発展する。

発端は、市民の重要な生活道路の形状変更という、些細なことからだった。コンペを勝ち抜いたスペイン人建築家が美術の殿堂に相応しい感動と驚きに満ちた空間の創造は、市民達の今までと変わらぬ使用感を求める声によって否定された。新しく建築される事になった研究センターは、将来の収蔵や研究の為に
必要なスペースを確保したい学芸員たちの要望を受け、高層建築物となる予定が、今までの景色を変えることに違和感を感じる市民や行政館によって、計画の三分の一にもならないような小さな建物に変更を余儀なくされた。芸術を守り、市民達により美しい状態で、自国の歴史的な美の遺産を展示したい学芸員たちの理想はことごとく否定されていく。
長く続く混乱と停滞に、希望に燃えていた館長や学芸員、建築家は疲れ切り、熱意を失いかけていく。
理想をなんとか貫こうと奮闘した館長もついには退陣を表明、妥協を重ねた計画は、とにかくも建築許可を取り付ける事ができた。しかし、実際の施工会社の入札にいたり、一社しか入札に参加しないというとんでもない事態に。勿論一社しか参加しない入札など意味がないのだ。すでに4年以上収蔵品は倉庫に眠ったまま。ついにはここまでこじれてしまうまで放置した大臣の責任問題にまで発展する。映画の最後にその後入札が無事行われ工事が着手された事が知らされて、映画は終わる。

最初に反対を表明した市民達は、いったいこの事態をどう思っているのだろう?変化を受け入れることを拒んだ為に、どれほどの時間と労力が失われたのか、自覚があるのだろうか?人間は時としてそれがどんなに理不尽で、不合理であっても、「慣れている」それだけで変えようとしない頑迷さを持っている。
そんな人間の愚かな面を突き付けられたような気がする。それでいながら、人間は100年先も輝き続けるような理想の実現を求めるものでもあるのだ。

ふと、ルーブル美術館にガラスのピラミッドが出現した時の事を思いだした。あれが完成した時、賛否両論激しい対立があった。しかし、今ではどうだろう、あの光景はすっかり受け入れられてしまっている。

美術館改修にまつわるこの騒動は、形を変えて私達の社会のいたるところで起きているのではないだろうか。変化を拒みつつ変化を求めるのが人間なのだということを、この映画ははっきりと示してくれた。


この映画のもうひとつのテーマは、美術館の裏側で行われている展示計画の策定、修復、収蔵品の買い付けなど、普段私達が見る事のない美術館の業務だ。こちらは、かつて博物館学芸員を目指して勉強をしたことがある私にとっては、非常に興味深かった。特に、展示計画について話し合う学芸員たちの真剣さに心打たれた。展示を見る側は意識することはあまりないが、作品をどのように並べるかによって、作品理解や感動の深さが変わってしまうことすらあるのだろう。作品を愛し、その作品の魅力や歴史的価値、美術史的価値を余すことなく表現するために、知恵を絞り合う学芸員たち。彼らの目に見えない努力によって、美術館は運営され、人々に感動と喜びを提供しているのだと感じた。

映画のテーマとは全然関係ないのだろうけれど、館長さんの存在がすごく気になった。彼は恐らく2メートル近くある大男、音楽と文学に造詣が深く、ヨーロッパ各国に家を持っているらしい。更に、お引っ越しの家具調度類から察するに、彼はかなりハイクラスの出身と思われた。うーん、さすがヨーロッパだねえと妙な感心をしてしまった。

学芸員や職員などいろいろな人物が登場するのだが、一番好きだなあと思ったのは、この美術館を毎朝毎晩見回る警備責任者さん。40代位の人なのだがこの美術館は自分の女房・子供と同じと言い切り毎日巡回している。彼の建物を語る言葉や表情が実にいい!実直で信念を持った男~!!っていう感じがたまらない。

工事はまだまだ続き、続編が撮影中だというから、ぜひ完成した暁にはみてみたいものだ!そしていつかは新しいアムステルダム国立美術館を訪れてみたい!!
鑑賞日 2010年9月11日(土)
場 所 ル・シネマ
監 督 マイケル・ホフマン
脚 本 同上
製作年 2009年
製作国 ドイツ・ロシア
原 題 The Last Station

高校時代に集中的にレフ・トルストイの作品を読んだ時期があった。恥ずかしながら、代表作「戦争と平和」は挫折してしまったが、「復活」「アンナ・カレーニナ」はなんとか読了したと思う。「幼年時代」「少年時代」「青年時代」「イワンのばか」「光あるうちに光のなかをすすめ」「クロイツエル・ソナタ」は気に入って何度も読んだ。トルストイが晩年家出をして鉄道の駅で死んだという話は知っていたが、その原因の一つが奥さんとのトラブルとは知らなかった。

トルストイ最晩年を取り上げたこの映画、半世紀もの結婚生活の果てを迎えるトルストイ夫妻と、若いワレンチンとマーシャの恋を通してなかなか考えさせてくれるものだった。夫婦とはなんぞや?人にとっての愛とは?現実と理想とは? 簡単に答えが出ない問いばかりである。

人生は一筋縄ではいかぬもの。トルストイは世間的には偉大な文豪だったが、妻ソフィアにしてみれば、それは彼の一面に過ぎず、愛する夫であり、子供たちの父であった。作家としてのトルストイを支え続けた彼女だからこそ、年をとるに従って、自らの思想的な理想を追い求めるようになった彼との間に矛盾が生じてしまったのだろう。はっきり言って彼女が結婚した時、トルストイは作家だった。作家の彼と結婚したつもりだったのに、いつの間にか、夫は思想家に転向してしまったのだ。約束が違う!!と言いたくもなるだろう。挙句の果てに夫婦二人三脚で書いて来た作品の著作権を放棄するなんて言われた日には、怒り狂うのもよくわかる。ソフィアの言動は、はっきり言ってそこまでやるか?と思うものだが、彼女の気持ちは痛いほどわかる。彼女は彼を愛していて、自分を見て欲しいし、自分の家族を守りたいのだ。だが、トルストイは妻を愛してはいるけれど、自分の理想を追求もしたい。ここに男と女の間にある発想の違いを感じる。

どちらの言い分も間違ってはいないのだけれど、歩み寄るのも難しい。人生はそんなことの連続だ。特に男と女の間には、深くて暗~い川があるものなのである。それでも、求め合わずにいられない。

熟年夫婦で見に行ったら、それぞれ複雑な思いを感じそうな作品。


鑑賞日 2010年9月5日(日)
場 所 岩波ホール
監 督 マルタン・プロヴォスト
製作年 2008年 フランス・ベルギー・ドイツ合作映画
2009年 フランス・セザール賞7部門受賞作品

6月に岩波ホールで予告編を見て、ぜひ見たいと思っていた。
実在の画家セラフィーヌ・ルイ(セラフィーヌ・ド・サンリス)とドイツ人画商ヴィルヘルム・ウーデの交流を描いた作品である。

何かを創造する人間というのは、ある意味自分でも御しがたい衝動のようなものを持っているのではないかと思うことがある。自分の意思で行うと言うよりも、まさに天から与えられた力によってそうせざるおえないようになっているというか・・・。

セラフィーヌがもし、ウーデと出合わなかったらどんな人生を送っただろう。セラフィーヌが絵を描いたのは、名誉やお金が欲しかったわけではなかったろう。純粋に自分を慰めてくれる草花や果物を描きたかったのだと思う。ウーデがその才能を見出し、作品を世に送り出す為に援助したわけだが、その援助が彼女の危うい均衡を壊してしまったようにも思えた。セラフィーヌの作品には不思議な揺らめきを感じる。

見ていると少し怖くもある。それはまるで万華鏡のようでもあり、顕微鏡で見る細胞のようでもある。彼女自身も自分の描いた絵が怖いという。それは彼女自身が自分の意思というより、見えざる手によって駆り立てられた結果の絵だからだろうか?

神を信じ、守護天使の声を聞いて絵を描いたという彼女が、世俗人の思惑や変化する経済状況など頓着できるはずもなく、彼女は精神の均衡を失い、ついには絵を描く事が出来なくなってしまう。
彼女の絵は狂気に陥る素地があったから描けたものなのか、それとも、ウーデとの出会いによって、彼女が描く事にのめり込み過ぎて狂気を誘発してしまったのかは分からない。しかしながら、彼女が神を讃える歌を歌いながら、精根を傾けて描く姿は壮絶で胸が熱くなる。

彼女の名前セラフィーヌは、セラフィム=熾天使に由来するものだろう。熾天使とは、天使の九階級のうち最上とされ三対六枚の翼を持ち、2つで頭を、2つで体を隠し、残り2つの翼ではばたく。神への愛と情熱で体が燃えているため、熾(燃える、などの意)天使といわれる。彼女はその名の通りの人生を送ったのだなと思った。

激しく感動するというよりも、じわじわと胸が熱くなる、そんな作品だった。
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