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映画鑑賞記録
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鑑賞日 2009年9月6日(日)
場 所 銀座テアトルシネマ
監 督 アンドレア・モライヨーリ
製作年 2007年 イタリア

前回に引き続きイタリア映画です。北イタリアの静かな山間の町に起きた17歳の少女の殺人事件。基本は殺人事件の犯人をサンツィオ刑事が解決するまでを描いたサスペンスドラマなんですけれど、単純な謎解きの物語ではありません。とても静かにドラマは進行して行きます。大げさな効果音楽はありません。静かな湖の景色、殺された少女の死体すらまるで絵画のように美しいのです。殺人事件を追っていくうちに明らかになる普通の人々の苦悩がなんとも切ないです。最終的に犯人は明かされるのですが、
謎がとかれたカタルシスより、それぞれの登場人物が内なる悲しみに折り合いをつけていく姿に感動します。

イタリア映画を見ての楽しみは、登場人物がイタリアの顔をしているっていことです。イタリア絵画見たことのあるような顔がずらり。
被害者の少女の死体の第一発見者マリオの父親役オメロ・アントヌッティとか、サンツィオ刑事の同僚役のネッロ・マーシャなんてミケランジェロの絵に出てきそうなお顔立ち。
それから、お部屋のインテリアとかがとてもおしゃれです。
イタリア語のもののたとえとかも、いかにもで素敵です。
95分という長さもちょうどいい感じがします。


イタリアでは口コミで評判になり大ヒットしたとか。
派手な要素は全くないけれど、見終わったあと、じんわりと心に残る映画ではないかと思います。
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鑑賞日 2009年8月22日(土)
場 所 岩波ホール
監 督 エルマンノ・オルミ
製作年 2006年 イタリア

見終わっての感想。「イタリア映画よ!お前もか!!」

映画に限らず物語にはオチがあるのが当然と思っていたのに、フランス映画には、自分が期待するようなオチがなくてびっくりしていたのです。最近は、フランス映画にオチを期待したらいけないと思うようになってきたのですが、まさかイタリア映画にも、オチがないとは!!あとは好きなように自分で勝手にオチをつけてねって監督に言われたような気がしました。そういう意味では大人を相手にしてる映画なんだと思います。
ハリウッド映画は何といっても予定調和的オチがありますから、子供でも安心して見られます。

イタリア人ってものすごく饒舌なイメージがある。イタリア語はスタッカートがきいているアップテンポなイメージ。でも、この映画はものすごく寡黙だ。登場人物が発する言葉はとても少なくて、セリフも日常会話のはずなんだけれど、何かを暗示しているお思わせる言葉が選ばれている。根底にあるのはキリスト教の聖書の言葉なのだろう。この作品は、現実的な物語というより、寓話的なものなのだと思う。深くキリスト教的なものに親しんでいる人ならば、それぞれの人物が話す言葉のなかに、容易に聖書の物語や教義的意味を想起することができるだろう。日本人の場合、セリフそのままの意味で追いかけていくことになるから、時々つながりが悪く感じるだろう。

映像についても同じことがいえる。導入部の図書館の場面で、100冊の写本が、太い釘で床や机に打ちつけられているシーンが特に印象深い。この釘の形状は、まさしくキリストが十字架に手足に打ちつけられた釘を想起させるものだ。

主人公の若きエリート哲学教授はキリストのような風貌をしているし、彼に寄り添おうとする食料品店の若い女性も、どこかマグダラのマリアを思わせるものを持っている。河畔のロッジに住まう老人たちは、キリストの弟子たちのようにも見える。

こんな風に書くと抹香くさい映画のように思われるかもしれないが、決してそんなことはない。

ポー川河畔の自然は美しく、ゆったりと流れる時間を楽しませてくれるし、キリストさんとあだ名された哲学教授と老人たちとの交流は、人が本当に必要とするのは、人の肌のぬくもりであり、語らいであることを静かに語ってくれている。

声高に主張する映画ではないのだが、じんわりと心に染みる映画だと思う。

主演の男優さんが本当にキリストさんというのにふさわしいお顔立ち。
イスラエルの方だそうです。妙になっとくしてしまった・・・。

鑑賞日 2009年8月12日(水)
場 所 新宿武蔵野館
監 督 クリスチャン・デュゲイ
製作年 2008年 イタリア・フランス・アメリカ合作

今年はココ・シャネルの生涯を取り上げた映画が3本も公開される。
まず一作目がシャーリー・マクレーン扮する晩年のシャネルが生涯を振り返るというこの作品。ブランド品はほとんど持っていないけれど、もし買えるなら、シャネルスーツは一着欲しいなあと思っている。まず無理だろうけれど。

予告編を見て、結構期待していた。シャーリー・マクレーンはやっぱり迫力があったし・・・。でも、正直、ちょっと物足りない感じだった。彼女の少女時代から晩年までを2時間ちょっとで納めようというのはやはり無理がある。伝記としてみればそれはそれなのだろうが、なんだか通り一遍な感じになってしまっていた。もう少し、エピソードを絞って深く掘り下げてくれた方が共感できたかもって思ってしまった。

9月にフランスの女性監督が撮った作品が公開されるので、そちらを見て比較検討してみたい。


鑑賞日 2009年8月1日(土)
場 所 BUNKAMURA ル・シネマ
監 督 ヘルマ・サンダース・ブラームス
製作年 2008年 ドイツ・フランス・ハンガリー合作

たいていの場合、女性が評価する女性は男性受けが悪く、男性が評価する女性は女性受けが悪い。それはおそらく、両者の評価基準の置きどころが違うからだろう。女性が描きたいと思う女性の魅力とはなにか?男性が描きたいと思う女性の魅力とはなにか?この両者にも大きな差があるように思う。女性は女性に対して、非常にシビアな目を持っているものだが、同時に尊敬できる女性に対しては強いあこがれも持つように思う。
監督はその名前の通り、ブラームスと同じ血を引く人間である。作曲家ブラームス自身は生涯独身だったし、もちろん子供も残していない。シューマンとクララとブラームスの関係はいろいろと取りざたされてきたが、本当のところは何もわかっていないらしい。一人の女性をめぐって複数の芸術が争った例は非常に多い。芸術家の霊感を刺激するミューズがどこにでも転がっているわけではないので、そういうことになってしまうのかもしれない。
 クララ自身が非常に才能豊かな女性で、シューマンとの結婚を父親に反対されて、訴訟まで起こしたというから、実際かなり意思の強い人だったのだろう。
多くの子供を抱え、精神的に不安定な夫を支え、自らも表現者として活動するクララはまさにスーパーウーマンのようだ。だか、彼女は決して強いばかりではなく、14歳年下のブラームスの才能と人柄に支えられていた。
 シューマンとクララの関係は、普通の夫婦のような結び付きに加え、互いの才能を愛するという特殊なものがあったように思う。そして、シューマン夫妻とブラームスとの結び付きも、「才能」を媒介としたもののように思えて仕方ない。三人がそれぞれの「才能」を認め、愛しているからこそ成り立つ関係なのではないだろうか。
 
 それにしてもブラームス監督が選んだ俳優陣はなんとこの役柄にふさわしいことだろう。シューマンの内省的で詩人のように繊細なイメージとブラームスの明るく陽性で天真爛漫なイメージが実に対照的。その間にあって、クララの芯が一本通った凛々しさと美しさが本当に適役だと思う。
 女性監督が女性の強さを描くとき不思議と共通するものがあるように思う。
それは人生の荒波にもまれながら失われることのない清純さと匂いたつような柔らかなエロティシズムだと思う。女性が惚れてしまいそうな色香なんですよね・・・・。

 しかし、ちょっと悔しい。人生を重ねてきた女性の美しさを存分に表現している日本映画はあまり見当たらない。そもそも日本男性は母の強さは求めても女の強さを求めてないように思うし・・・・。

足首フェチの私としては、クララが下着姿でピアノの練習をする場面でちらりと映ったマルティナ・ケデックの足首が、想像通りの太さだったのでやっぱり~と納得。西洋人の足首って本当に太い。でもそれがまたたまらなくいいのですよ。

 この映画のもう一つの魅力は音楽であるのだが、音楽の扱いも非常に考えられていて素晴らしい。余分な音がない。現代の生活は機械から四六時中音が垂れ流しになっているけれど、録音再生技術がなかった当時は、音は人が奏でなければならないものだった。台所で魚をさばくシーンや、酒場のシーンなどがって19世紀当時の生活などが垣間見えて、そういうところもなかなか楽しめた。

 そして、やはりドイツ映画。フランス映画のようにラストに困惑するようなことはありません。余韻を残しつつ、ちゃんと気持ちを収まるべきところに収めてくれました。ただ、ドイツ語の愛の言葉は、フランス語のそれより、ずっとまじめに聞こえるのはなぜなんでしょうねえ・・・・。

鑑賞日 2009年5月31日(日)
場 所 シネスイッチ銀座2
監 督 ピエール・ショレール
製作年 2008年

フランス映画を見るたびに思うのだけれど、どうしてこうラストの納まりが悪いのだろう。起承転結で言えば「結」の部分が、まるで空中に投げ出されて、ゆっくりとひらひらと落ちてくる紙を掴もうと空を見上げて右往左往しているような気分にさせられる、そんな終わり方なのだ。ハリウッド映画や日本の映画だと、ラストはちゃんと納まるように作られている事が多い。ハッピーエンドだろうと、悲劇的なラストであろうと、ちゃんと終わりましたよって納得がいくような終わり方をする。ところが、フランス映画って、心の収まりがつかないままに唐突に終わる。え?これで終わり?それで、この先どうなるの?って良く噛んでいない肉を無理やり飲み込まされたようなつっかえ感が残る。
でも、それこそがフランス的なのかなあと最近は思うようになった。
人生って映画みたいにいつも区切りよく行くわけじゃない。たとえ表面が変わらぬように見えたって川の流れみたいにいつだって動いているものだから。そう思うと、フランス映画はとてもリアルな人生を切り取った映画なのかなあと思ったりする。


《以下ネタばれあり》
ベルサイユ宮殿を囲む雑木林に住み着いていたホームレスの若い男の下に
幼い子供を連れた若い女が迷い込む。女は家族から見放され、子供を抱え路上生活をしながら必死に生きている。たとえ路上生活を余儀なくされていても、子供に精一杯子供を愛していることが画面から伝わってくる。子供も母を慕い健気に生きている。女は何とかして経済的な自立を果たしたいと願うのだが、幼い子供づれではそのチャンスすら掴むことができない。女は偶然知り合った男と一夜を過ごし、そこに子供を置き去りにしてしまう。多分、男が発した「もう5日も人と話していない」という言葉のなかに何かを感じ取ったのだろう。女は、更生支援所を訪れ、老人介護の仕事につき、そこで多分はじめて彼女を肯定してくれる言葉を掛けられる。休みの日、置き去りにした子供を捜しに雑木林に戻るが、男がいた掘っ立て小屋は燃えてしまっていて、男も子供も姿を消していた。

子供を置き去りにされた男は、最初は仕方なく子供の面倒を見だす。子供は母を求めて泣くでもなく、男と寄り添って暮し始める。ベルサイユの森に住むホームレス達のつくる共同体の中に、子供は受け入れられ、たとえ寒さに震えひもじさにべそをかいても、男の傍を生きる場としていく。

ある時男は病気になってしまう。子供は健気に看病するが、男の病気は深刻な事態となってしまう。男は子供に誰か助けを呼んでくるように命じる。子供は森を抜け必死でベルサイユ宮殿に走り、18世紀の衣装を身につけた男に助けを求める。恐らく子供は男が話したベルサイユ宮殿の王の侍従の話を覚えていたのだろう。男は子供の知らせで助けられ病院に収容される。病が癒えたとき、男は大きな決心をする。
長く帰ることのなかった父親の元に戻る。若い妻と再婚した父親は息子を一度は拒むが、息子が連れてきた幼い子供の為に受け入れる。男は真面目に働きだす。男の子供ではないことは男の父親にはわかっていた。だが、幼い子供を守りたいと思う息子の気持ちを汲み取ったのだ。そのことが、男の父親に対するわだかまりを解いていく。やがて、男は嘘をついてまでも子供を自分の子供として認知し親権を得る。子供を学校にやるためだった。子供は学校になじめずベルサイユの森に戻りたいという。男は、再び父親の家を一人去っていってしまう。7年後、幼かった子供は思春期をむかえる少年へと成長していた。男の父親の元をかつて子供を捨てた母親が尋ねてくる。子供は託された手紙を一度は拒むが、手紙の内容を読んでもらって、母親の気持ちをしり、尋ねていき母親が成長した子供を抱きしめるところで映画は終わる。

この映画の中で、フランスの社会支援制度のことがいろいろ出てくる。
ホームレスに一夜の宿を提供するサービスや、生活保護のこと、などだ。
映画を見ることによって、旅行に行っただけでは見えてこない市民達の生々しい生活の一端を見ることが出来る。

最初に書いたように、何か明確な結論がある映画ではない。むしろ物語りはこの先も続いていくのだと思わされる。人が人と寄り添って行く意味はなんなのか、人にとって生きるってなんなのかを静かに問いかけられてくる。そんな映画だと思う。








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