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映画鑑賞記録
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鑑賞日 2008年8月9日(土)
場 所 池袋
監 督 宮崎 駿

宮崎駿監督の最新作「崖の上のポニョ」はアヴァンギャルドな作品だと思う。評価は絶対に真っ二つに分かれるはずだ。最高の作品と最低の作品として。もしもこの作品になにか明確なストーリーや論理を見出そうとすれば、それはあまりに無駄なことだと思う。はっきりいって論理的なストーリーなんてないのだ。奇しくも主人公宗介の母リサが言っている。

「不思議だけれどそういうこともある」

人知を超えた出来事をあるがままに受け入れる柔らかな感覚がない人間にとったら、この映画は支離滅裂なものでしかない。宮崎監督は、むしろその支離滅裂さを確信的に描こうとさえしていると感じた。

この映画は見たものに全てがゆだねられていると言っていい。宮崎監督は心の趣くままにこの作品を作ったのではないだろうか。宮崎監督は美しい海を描き、愛らしい無邪気な子供を描き、自然の圧倒的な力を描き、人間の愚かしさや可笑しさも描いている。それらをどのように味わおうと、それは見るものに全くゆだねられているのだ。
ここで主人公はなぜ5歳の幼児なのかと言うことを私は考える。アニメ界には有名な5歳児がすでに登場している。言わずと知れた「クレヨンしんちゃん」である。クレヨンしんちゃんはなぜ5歳児なのか。4歳でもなく6歳でもなく5歳児なのはなぜか。
 5歳というのは他者をはっきりと区別し、その上で自分とのつながりを意識し、「共感」を育むという心の動きを獲得する年齢なのだと思う。そして、自らの考えを持ち、行動し、その結果を受け止めることができるようになる年齢でもあるのだと思う。

人間のもっとも人間らしい感情の一つといえる「他者との共感」が芽生え育ち花開く瞬間をこれほど美しく描いた映画を私は見たことがないかも知れない。ラストで宗介はあるがままのポニョが好きだと高らかに宣言する。

この映画は、きっと見るたびに違う部分に共感するものだと思う。子供は宗介になりきるかもしれないし、ポニョになりきるかも知れない。大人はリサや耕一、介護施設に預けられる老女達に心を寄せるかもしれない。どのように感じ受け止めようと、宮崎監督は「みんな正解です。」と言いそうな気がしてならない。

宮崎監督がこの作品でこだわったのは「手書き」であることだという。彩色や撮影はデジタルで行われたそうだが、作画は手書きにこだわったそうだ。

一時期何でもデジタルがもてはやされたが、私は人間はデジタルでは必ず物足りなくなると思っていた。人間の能力は機械的に測れるものではないと思うからだ。CDは人間の耳の可聴域をはみ出る音をカットしてしまっている。しかし、人間は耳だけで音を聞いているわけではないと思う。体全体が音を振動として感じることができるのだから、可聴音を越える振動も体が捉えているのだとしたら、CDの音は味気ないものになってしまっているに違いない。
絵画にしても、複製画と本物では、やはり受ける印象が全く違う。人間は本当に微妙な何かを見分けられる能力を持っているのだ。デジタルでは生み出すことのできない魂の揺らぎを写すことを宮崎監督は目指したように思う。
海を漂うくらげも荒れ狂う並みも、光る水面も、心の襞にしっくりとなじむ美しい動きをしていた。
人間はこれからもデジタル技術を磨いていくだろう。しかし、人間の優れた能力を欺けるほどの技術がいつできるようになるのだろうか?デジタル技術だからこそ生み出せる映像もあるだろう。しかし、5歳の幼児の柔らかな体の動きを再現できる日はまだまだ遠い先のことだと思う。

やっぱり、宮崎駿監督は、天才だと思った一本。



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