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映画鑑賞記録
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鑑賞日 2011年2月19日(土)
場 所 ユーロスペース
監 督 アッバス・キアロスタミ
製作年 2010年
製作国 フランス・イタリア

文章を書く時には「起承転結」をはっきりさせなさいと言われる。映画のストーリーにも多くの観客は無意識のうちに「起承転結」を求めてしまう。しかし、フランス映画はどうも明確な「結」、すなわち「オチ」をつけるのが嫌いらしい。この映画も期待通り?明確な「オチ」がない。「オチ」は勝手に見る人間がつけてくれて結構です!的な突き放し感満ち満ちで終わる。

そもそもこの映画は最初から主人公の二人の関係設定が曖昧で、見る人間がちりばめられたセリフのどこを繋ぎ合わせていくかによって、最低でも二つのストーリーが生まれるように仕組まれている。見方によってはいかようにも二人の関係とストーリーを読みとれるようになっている。そのうちのどれがオリジナルでどれがフェイクだと決められるものではない。というか、明らかにそれを狙っているのだから。

英語・イタリア語・フランス語が交錯するセリフの中で、一体どれが彼らの真実の関係を表しているのか?最初はそんな事を考えていたのだが、見ていくうちに、この作品で監督は人生や人間の関係の曖昧さ、答えの無さ、それでいて、人間そのものの存在や複数の人間が相対するときに生まれる感情のリアリティを描きたかったのではないかと思った。反抗的な子供にいらつく母親、夫の仕事中毒を嘆く妻、些細ないき違いをなじられ憤慨する夫、セリフはみるものが身につまされるものばかり。でも、この二人は本当の夫婦なのか、それとも、単に成り行きでその役割を演じる「夫婦ごっこ」をしているだけなのか・・・・?
映画は最後まで種明かしをしない。

多くの人間が、場面場面で様々な顔を持ち、その場に相応しい役を演じている。その事を自覚することは少ない。どの顔が「オリジナル」でどの顔が「フェイク」であるかなんていちいち考えてはいられない。しかし、はたと立ち止まってみると、自分が「オリジナル」と思っている人生は、実は、演じているもの、相手に合わせて作り上げた「フェイク」なんじゃなかろうか?と感じてしまう瞬間があったりする。

人生に明確な答えはない。数学の計算のような正しい答えもなく、化学実験のような再現性もない。揺らぎながら過ぎ去っていくものでしかない。だけれども、瞬間瞬間に生まれる感情を、これがオリジナル、これはフェイクと切り分ける事ができるのだろうか?

映画を見終わって感じたのは、「人生には正解はないけど、今生きているってことはどうやら確からしい。喉が渇いたし、トイレにも行きたいから・・・。」なんて変な感慨だった。

演じている俳優がものすごく自然でリアルな存在感だったからこその作品だと思う。やっぱり、恐るべし、ジュリエット・ビノシュ!相手役のウイリアム・シメルって有名なイギリスのテノール歌手だそうだ。
どうりで魅惑的な声と佇まいだなあと納得。
明快な主張、ただ一つの結論を映画に求める人は、この映画はお勧めしにくい。最後のシーンにどれだけのストーリーを見つけられるか、それを楽しもうと思う人になら絶対にお勧めしたい。


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