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映画鑑賞記録
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鑑賞日 2010年1月23日(土)
場 所 ル・シネマ
監 督 ヤン・クローネン
製作年 2009年 フランス
原 題 COCO CHANEL & IGOR STRAVINSKY 
公式HP http://chanel-movie.com/

2009年秋から3本のシャネル映画が封切られた。三本を見比べて、この作品が一番面白かったと思う。
2009年8月封切りの「ココ・シャネル」 は、ココ・シャネルの総覧的伝記映画。9月封切りの「ココ・アヴァン・シャネル」は、ガブリエル・シャネルがいかにしてデザイナー、ココ・シャネルとなったのかというシャネル立志伝青春編といった感じ。そして、今回の「シャネルとストラヴィンスキー」は、伝記的物語というより、シャネルとはいかなる人間であったのか、さらに踏み込んで、男と女の愛の愛のあり方について考えさせられる映画。

この順番で封切られたのは意図的なものではないと思うのだが、もし違っていたら、前の2本に対しての評価はもっと辛口になっていただろうと思う。逆に、この順番で見たから、より今回の作品が楽しめたともいえる。

シャネルは1883年生まれ、ストラヴィンスキーは1882年生まれ。
亡くなったのはともに同じ1971年。19世紀末に生まれ、二つの大戦を含む激動の時代の先端を走り続けた二人は、人並み外れたエネルギーの持ち主だったのだろうと思う。その二人が出会って、恋に落ち、その恋を創作のエネルギーとしたというのは非常に納得がいく。

この映画を一言で言いあらわすのはとても難しい。ココ・シャネルが香水作りに挑み、求める香りを「人間の性格のような複雑な香りがを探しているの」と調香師に説明する行があるが、この映画は、さしずめシャネルのNo.5のような映画とでもいうべきか。

映像も音楽もシナリオもすごくいい。そして、キャストも実にふさわしい。シャネル役の女優さんは非常にエレガントで、アルトの声が大人の女を感じさせるし、ストラヴィンスキー役の俳優さんは、少し癇性で知性的な眼差しが役にピッタリで、脱ぐと意外なほどマッチョなところが絶妙のアンバランス加減でいい。この、表情と体のマッチョさというところが、重要!私として一番良かったのは、ストラヴィンスキーの妻役の女優さん!彼女なくしてはシャネルとストラヴィンスキーの関係をここまで際立たせることはできなかったように思う。

ストラヴィンスキーの妻は彼の従妹で、二人の間には4人の子供がいる。まさに良き妻、良き母のイメージそのもの。最初に登場するときには大きなお腹をしている。事実そうだったのだろうが、臨月を思わせる大きなお腹が彼女のあり方をくっきりと印象づけている。大きな緑色の瞳と、薄い眉。ストラヴィンスキーがシャネルと深い仲に陥っていくのを、夫と子供の為に見て見ぬふりをしていなければならない苦悩にじっと耐える姿がすごくいい!顔立ちが北方系絵画の聖母マリアをなんとなく想起させるし、哀しみと「母」というもの頑固さのようなものを感じさせる表情がなんとも、この妻役にぴったり。

この映画で登場回数はあまり多くないが、結構重要なのは、バレエ・リュスの主催者ディアギレフではないかと思う。二人を出会いを取り持ったのは彼だったし、シャネルが彼との別れを決意し、恋の清算を頼みこんだのも彼だった。ディアギレフとシャネルは、ディアギレフがヴェニスで危篤に陥った時に、シャネルが駆けつけ最期を看取ったほど深いものだったそうだ。ディアギレフの男色は有名だから、この二人は恋愛関係じゃないことは確か。(秘書の面接と称して彼が行っていた行為を見るとねえ・・・。こういうとこ描いちゃうところがフランス映画だわ。)むしろ、自身の良き理解者としてシャネルはディアギレフを慕っていたのじゃないだろうか。そう思わせるものは、シャネルが一切口外しないことを条件に、「春の祭典」の再演に資金提供を申し出る場面にあらわれていると思う。

この映画はR-18指定。作品中3回ほど、まあ、指定は仕方ないでしょうねえ、という場面がある。でも、そんなにエロティックという風には感じない。この場面にむしろストラヴィンスキーの男の哀愁を感じてしまう。シャネルに絡めとられていくストラヴィンスキーは、クモの巣に捕えられた甲虫のようだなあとおもってしまった。カメラワークがまた実によろしい。この場面でストラヴィンスキーの肉体のマッチョ具合が重要。程よいマッチョ具合が、男である性(さが)を出してないと、後の重要な場面が活きない。

この映画はいろいろな見方ができるが、非常に興味深かったのはストラヴィンスキーのシャネルと妻の間で揺れる男心といったところか。ロシア革命で財産を失い、苦しい生活を余儀なくされたストラヴィンスキーを別荘に招く。妻の献身を受けながら、シャネルに惹かれていくストラヴィンスキー。シャネルの洗練され、刺激的な愛情を与えられ、それを糧に精力的に創作にはげむ。妻や子との穏やかな生活に安らぎを感じながら、シャネルから与えられる情熱に抗えない。そりゃあ美しく洗練されたシャネルに迫られれば籠絡されない男はいないだろう。だが、妻や子も捨てきれない。妻にシャネルと寝たのかと問われ、どちらの女性を選ぶのか、結局彼は一度もはっきり答えることができない。妻は、我慢しきれず、子供たちを連れてシャネルの別荘を去る。

彼は二人の女からの問いに全て無言でしか答えることができない。もう、哀れなほどに、選ぶことができない。結局、そういうストラヴィンスキーにシャネルが愛想をつかす。しかし、なぜシャネルが彼に愛想を尽かしたのか、わかっていないだろう。

この映画はシャネルが「春の祭典」の初演でその過激なまでの先進性に心惹かれる場面から始まり、シャネルが最愛の男性、カペルを失い、その隙間を埋めるようにストラヴィンスキーを愛したと思わせる。ストラヴィンスキーと肉体関係を結ぶことを決めたシャネルが自室でカペルの写真立てを涙を流しながら伏せるシーンがある。死んだ男は現実の寂しさを埋めてはくれないし、新しい刺激も与えてくれない。ストラヴィンスキーの才能をシャネルは愛したのだろう。だが、才能のある男が、女の才能を正当に理解できるわけではない。二人の別れの朝のシーンが非常に象徴的だ。苦しみながら再演の為の改訂稿を完成させたストラヴィンスキーの入浴シーン。(彼の入浴シーンは劇中に数度ある。その場面との対比に注意してほしい。)浴槽につかるストラヴィンスキーの頭部しか見えない。シャネルはタオルを持ってきて、浴槽の脇に腰を下ろし、彼としばし対峙する。そして、もうこの二人の関係が終わったのだと告げる。最後に彼女はストラヴィンスキーの額に口づける。この場面がシャネルにとってすでにストラヴィンスキーは愛すべき才能としての存在でしかなくなってしまったことを象徴しているように思われた。

シャネルにとって、自身が唯一無二の存在であることを人生をかけて追及していたのに、ストラヴィンスキーはそれを理解できなかった。そのことに気づいてしまった時、彼女の中で、恋は終わってしまったのだろう。でも、ストラヴィンスキーの才能をこの世に送り出したい、その為の力が自分にあるなら援助しようとする。この潔さがすごい。

二人の情交シーンをこの場面から振り返ると、なるほど~と納得。ストラヴィンスキーが程良いマッチョであることが非常に重要だと納得できること請け合い。

この映画、エンドロールのあとにも重要なシーンが挿入される。このシーンを見逃したら作品全体の理解ができないと思う。ぜひ最後の最後まで席を立たないで見てほしい。

オープニングとエンディングに次々と変わるカレイドスコープの映像が映される。この映像が後半ほんのわずかな時間だが劇中に挿入される。この映像がなぜか、顕微鏡下で観察される細胞分裂や細胞増殖の画像を想起させる。だから、なに?と言われても困るのですが、非常に印象深かったので・・・・。

そうそう、それから、室内装飾が非常に素晴らしかった~。(ルネ・ラリックの作品が惜しげなく散らばめられてる。)シャネルが自分が一番好きと言ったモノトーンの部屋に、ストラヴィンスキーの妻が、それを嫌って、カラフルなストールや壁掛けで部屋を飾り付けるシーンは二人の在り方をあらわしていて、非常に面白かった。


ひとつひとつの場面が美しく、複雑な意味をもっていて、最後までひきこまれた作品。はっきりいって、男性にはあまりおすすめではないと思う。きっとストラヴィンスキーに自分を重ねることになるでしょうから。(笑)

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