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映画鑑賞記録
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観賞日 2010年12月4日(土)
場 所 TOHOシネマズ府中
監 督 森田芳光
制作年 2010年

2003年に出版された磯田道史氏著新潮新書『武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 』が原作。原作を2007年に読んで、とても感動した事を覚えていた。映画化されると聞いて、楽しみに待っていた。

1842年(天保13年)7月から1879年(明治12年)5月までの約36年間の猪山家の入払帳=家計簿から読み解かれた幕末から明治にかけての生々しい家族の生活が著者によって読み解かれた原作はいろいろな面でとても興味深かった。それが、映画としてどのような物語になるのか興味津々だったのだが、大げさではなく淡々として、とても暖かな家族の物語になっていて面白かった。いろいろな切り口で考えさせられる映画でもあった。特に、親は子に何を伝えるのか?という点で非常に興味深かった。

猪山家は加賀藩に代々御算用方として勤めるいわば江戸時代のサラリーマン家庭である。それも財務総務関連のエキスパートとして自負もあり、実際その高い能力を持って、出世も果たしている。

それでも、薄給での家計のやりくりは苦しく、年収の2倍に当たる借金を抱えている。現代で言えば、住宅ローンにマイカーローン、子供の教育費、冠婚葬祭費なので、年収800万なのに、1600万円の負債を抱えていて、その年利が18%!利子を返すのが精いっぱい。
家計を立て直すべく、最低限の家財道具以外をすべて売り払い、借金の棒引きを交渉、家計立て直しに家族一丸となって取り組む様子は、コミカルで在りながら、身につまされるリアリティがあった。その中で注目したいのは、猪山直之が息子の直吉に厳しく読み書きそろばんを教え込み、
家計の一部を預け管理させたところだ。幼い子供に家計という小さな経済を教え込み、やがてその教えが海軍という大きな組織を動かす力となっていく。

日本では、子供にお金の話をすることを嫌う風潮がある。家族の生活の基礎となるお金がどこからやって来て、誰が、どのような目的で、どのように支出されていくか、とても重要な事なのに知らされないまま大人になってしまう。それはとても不幸な事だ。「入るを量りて、出ずるを為す」という言葉があるが、管理を自分の責任としないと、人は目先の安楽に流されがちになってしまう。入るもの以上に使ってしまえば、赤字になるに決まっているのに。

親は子供に見通しを立てることを教えなければいけない。自分の能力を磨かず、生活の入りと出をしっかり管理する術を持たない人間は、とても危ういのだ。

直吉は父の厳しさに反発するが、やがて成長し、それが父親としての愛情であった事に気付いていく。生きるための知恵と技術を親から子に伝えること、今それがとても難しくなっているようだ。

この就職氷河期のなか、せっかく子供が内定を掴んだのに、そんな名もない企業ではみっともないから、やめなさいと言う親がいると言う。内定がもらえないなら、留年すればいい、留学すればいい、と安易に言う親もいるという。

自分の能力を磨き、その能力を発揮できる場を探し、給料をもらい我が身と家族を生かしていく。
大人として生きていく為には絶対に必要な事をなせるように、親は子に憎まれても導かなくてはいけないと思うのだが・・・・。

直之の愚直な生き方は、普通に生きる事の難しさと素晴らしさを改めて見せてくれたように思う。
家族を支えるのは、そこに属する者ひとりひとりの努力が必要だとも思う。

歴史的資料を、時代を経ても色あせない家族の物語に仕立てた監督の腕はなかなかすごい!
俳優陣も芸達者だ。特によかったのは松坂慶子さん。なんてチャーミングなんでしょう。年を取っていくほどに、いい味になっていくなあ・・・。
直之の妻駒役を仲間由紀恵さんがやっているが、ちょっと残念な感じ。駒さんというより、仲間由紀恵さんのまんまっていう感じなんです。ヤンクミと同じセリフ回し。綺麗で雰囲気もいいのだけど、ちゃんと役にはまっていない感じがしてしまう。

2時間以上ある映画だったが、途中泣いたり笑ったりであっという間だった。

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観賞日 2010年11月27日(土)
場 所 角川シネマ新宿
監 督 松井久子
制作年 2010年
制作国 日本・アメリカ
公式HP 
雑誌の映画評を見て、見たいと思っていたところに、会社の同僚から招待券もらった。20世紀の偉大な芸術家 イサム・ノグチの母、レオニー・ギルモアをモデルとして作られた映画。しかし、これは伝記映画ではない。クレジットタイトルにも書かれていたが、あくまでも実在の人物をモデルにしながらも、二つの文化の狭間で人生と向き合い、子供を育てた女性の一生を描いた「フィクション」だ。

この映画はいくつものファクターが重なりあっている。それらが絶妙なバランスで重なりあい、複雑で美しい物語となっている。キャストも豪華だ。レオニー役はエミリー・モーティマー、野口米太郎役は中村獅童。脇を固める役者さんも皆うまい人ばかり。


この映画では日本とアメリカの風景や文化が様々なもので対比させられている。
風景、言葉、しぐさ、男と女の在り方・・・・。セリフや画面構成の中にいくつもの
意味合いが隠されている。非常に練り込まれて密度の濃い脚本であり演出だと思う。

特に印象に残った部分を書いてみたい。

アメリカと日本でロケをした風景の映像がとても美しい。構図の美しさは本当に素晴らしい。特に、浮世絵や障壁画を思わせるような構図が随所に出てくる。アメリカの風景を日本の伝統的な構図で切り取っているところがとても興味深い。

海岸の映像を見て、それが日本の海岸だとすぐに判断できるのはなぜなのだろう?砂浜と遠くに見える崖、その上に茂る木々。家もなく、ただそこに在るのは海と陸と植物と空と光、それでも、そこが日本だと確信する感覚を改めて不思議に思った。

構図だけでなく、小道具の扱いがとても暗示的で意味深い。レオニーがひと抱えもある白百合の花束を抱え二人が住む家へと戻ってくる。レオニーは花束を解いて花瓶に差す、花瓶の口が広くて、ユリの束がばらけて広がる。ヨネが日露戦争勃発を報じる新聞で顔を隠している。レオニーが顔を隠していた新聞をのけると、目元に大きなあざができている。日本人を快く思わないアメリカ人に暴力を振るわれたのだ。開戦を知らず帰りが遅かったレオニーを不機嫌に責めるヨネ。もうアメリカにはいられないというヨネに、レオニーは妊娠を告げる。ヨネは驚き、彼女の妊娠を受け入れられず、喜ぶどころか、彼女が持ち帰った白百合を薙ぎ払い、踏みにじる。

白百合はキリスト教の中では聖母マリアの象徴であり、受胎告知のシンボルでもある。その花を踏みにじる行為によって、ヨネの身勝手さ、彼と彼女の間にある文化の隔たりを感じさせるのだ。そして、この白百合が、後半、娘の名となって再び現れる。彼女はヨネと分かれたあと、ある男性と愛し合い、娘を産む。だが、最後まで、娘の父親が誰なのか、娘にさえ明かさない。だが、難産の末、産み落とした娘に、レオニーは「アイリス」と名づける。アイリスとはアヤメの類を差すが、古くは百合も含むものだった。百合と同様の象徴性を持っていると言える。イサムがヨネ・ノグチの息子であるとすれば、アイリスは、レオニー自身の娘なのだ。恋に破れた娘アイリスに、レオニーは、「あなたが愛したことが重要なのだ。」と語りかける。アイリスが自分の父親は誰なのだと激しく問いかけるが、レオニーは「頭がよくて、紳士で、必要な時に助けを与えてくれた人」としか明かさない。息子イサムには、「芸術家の血が流れるお前は芸術家になるのだ」と言ったのに、娘には言わない。なぜか?彼女は娘の名は自分でつけた。しかし、息子の名前は父親であるヨネにつけさせている。名前を与える者がその人間に対して特別な関係を持つという意味があるのだとすれば、アイリスはまさにレオニーだけの娘だったのだろう。セリフの中に、普遍的にある母と息子、母と娘の関係性の違いが隠されているように感じてならない。

言葉とアイデンティティの問題も興味深い。レオニーが日本語を話した場面は僅かに2か所しかない。日本にやってきたレオニー母子の為にヨネが用意した家を出ていくとき、世話をしてくれた女中に礼を言う場面と、勇を一人アメリカに送り出すシーンで、ヨネに「私はあなたの犬ではない!」というシーンだけ。言葉がわからなければ、何を言われても気にしなくてもよいからと言っているが、言葉が通じずとも、自然と通じ合えるのだと思わせるシーンもたくさんある。言葉の残酷さ、言葉が通じるからこその理解、人間の複雑なコミュニケーションの問題も描かれているところがなかなか味わい深いものだと思う。

まだまだいろいろあるのだが、書ききれないし映画を見ていない人には、良くわからない事の羅列にしかならないと思うので、もうやめておこう。

それにしても、中村獅童はいい味だしてました。身勝手な日本の男のいやらしさと、才能溢れる男の抗い難い魅力のようなものを上手に演じていました。彼はハンサムじゃないんだけど、チャーミングだと思う。

重たい映画だけれど、見終わった後は、草原に吹きわたる風のような清々しさを感じた作品だったと言える。
観賞日 2010年8月7日(土)
場 所 新宿バルト9
監督・脚本 倉内 均
原 作 半藤一利 日本のいちばん長い夏(文春新書)
制 作 NHKアマゾンラテルナ
公式HP

まずは公式HPで映画の内容を確認していただきたい。

1945年8月15日、日本は戦争に負けた。それから、65年の歳月が過ぎた。この敗戦後(私は終戦という言葉はそぐわないと思っている。日本は戦争に負けた。だから敗戦というのが正しいと思っている。)日本は他国と戦争をしていない。日本がかつて、アメリカやイギリスを相手に戦争をしていたという事実を知らない若い世代も多いという。今年はこの節目の年と言うことで、例年以上に第二次世界大戦について取り上げた番組に力が入っていると思う。

昭和38年に開かれた座談会を再現するというスタイルで作られたこの映画、本当に考えさせられた。座談会の28人の出席者を現在の各界著名人が演じている。勿論、本職の俳優ではないし、テレビでおなじみの顔だから、ちょっと変な感じもある。しかし、途中、挿入される演者たちの話はとても率直でそちらも興味深かった。

私も、1960年代生まれだから、実体験として戦争を知っているわけではない。だが、太平洋戦争で召集され、スマトラ島で通信隊のトラック運転手として戦い、敗戦後抑留され幸運なことに7年後に無事復員することができた祖父の生の声を聞くことができた。そして、その祖父を待ち続けた曾祖母や祖母や母の経験、終戦当時15歳だった父親の体験を聞くことができたのだ。孫の誰もがその経験を聞かされたわけではなく、祖父母と近い関係にあった私が特に彼らの話を聞く機会に恵まれただけだ。

祖父の外地(敗戦前まで日本は海外に領土を持っていたのだ!!)での戦闘体験、働き手を召集され、年寄りと幼い子供を抱え、さらに都会から疎開してきた義妹家族の生活を厳しい農作業に耐え支えた祖母の生活、乗っていた商船が徴用され南太平洋で海の藻屑となった祖父の弟の悲恋話(彼には婚約者がいたが、その彼女も後を追うように病死したそうだ)。そして、敗戦後、昨日まで「国の為に死ね」と教えていた教師が、豹変する様を見、食べざかりにろくな食糧もなくいつもお腹をすかせ栄養失調でオデキだらけだった少年の父と、7年間も会えなかった父親の突然の帰還にただ驚き戸惑った母の記憶。

私は小学校1年生の時、給食で脱脂粉乳を飲んだ。脱脂粉乳は今ではスキムミルクとか低脂肪乳とか言われて健康に良いものとされているが、アメリカが貧しく栄養が十分に取れない日本の児童の為に、バターを取った後に残る脱脂粉乳をユニセフ経由で給食に提供したというものだという。私は脱脂粉乳を給食で飲んだ最後の世代だろう。はっきり言って、まずかった。少しでも美味しいと思ったのは小倉味とかココア味とか特別に甘みと香り付けがされた時だけだった。アルマイトのボールになみなみと注がれる脱脂粉乳を残さず飲むことを強要された。

近所の観音様の縁日で白い着物を着てタスキをかけた傷痍軍人の姿を見た記憶もある。恐らく、同世代でも同じ記憶を持つ人はそうは多くないだろう。もし、見ていたとしても、記憶に残らなかったかもしれない。祖父や祖母の口から話される戦争の生々しい記憶が、私の戦争に対する記憶スイッチの感度を上げたのだろうと思う。

本マニアの父親の蔵書にナチス・ドイツによるユダヤ人強制収容所の事が書かれた「夜と霧」や、子供むけに書かれた太平洋戦争関連の手記、従軍慰安婦、ソ連抑留者の強制労働、特高警察についてなどについて書かれた本があった。今思うと子供が読むには刺激的すぎるものもあったが、共働きの家庭で親の不在中に子供が読む本を規制する事など出来るはずがない。本当に近い人々から聞いた話と、戦争を記録した本が、私の中にあの「戦争」の記憶として引き継がれている。

敗戦の年に生まれた人もすでに65歳。実際に戦争を戦ったり、戦時下に生きた記憶を持つ人は当然のことながら70才以上の高齢を迎えている。あまりにつらく悲しい記憶なのだろう。自分の子供や孫に伝えることなく、鬼籍に入る人も多いと聞く。戦争は遠いものになり、日本人はかつて日本が他国と戦っていたという事実さえ忘れ去ろうとしている。

だが、世界では今もこの瞬間も、戦争が行われている。今日、平和なのだから、明日も平和だと信じて暮らしている私達は、明日本当に今日と同じ平和な朝を迎える事ができるのだろうか?明日は誰にもわからない。でも、少なくても、そう信じなければ生きていく希望が持てない。

私は、二人の子供に機会がある度に自分の身近な人から聞いた話を伝える努力をする。戦争は人間にとって最も愚かな行為である。しかし、戦争によって技術が進歩したという側面もある。人間は今もって「戦争」を根絶できずにいる。世界中のだれもが平和を願っている。人間が「戦争」を根絶できる日が来るかさえも分からない。だからこそ、人間の愚かさを肝に銘じ続け、流されて平和を手放してしまわないようにしなければいけないと思う。一度手放してしまった平和を再び取り戻すのがどれだけ困難であるか、この映画は教えてくれる。

「平和」は誰かに与えられるものではなく、自分たちで守るものだから、記憶をつなげていかなければいけない。自分が父母、祖父母、曾祖父母の作った社会に生きる存在であると同時に、今を生きる私達が、子、孫、曾孫の生きる社会を作る存在だという事を忘れてはいけない。平凡は人間は、道を切りひらくことはないかもしれないが、先人が拓いた道が再び閉ざされないように、踏み止まる努力をしなければいけないと思う。

観賞日 2010年7月25日(日)
場 所 TOHOシネマズ府中
監 督 米林 宏昌
企画・脚本 宮崎 駿
脚 本 丹羽 圭子
制作年 2010年
制 作 スタジオジブリ


2年ぶりのジブリ作品。前回の「丘の上のポニョ」に比べると、とても分かりやすい作品のように思う。作品のアウトフレームは今まで積み上げられてきたジブリ作品の匂いが濃厚だ。

主人公の少年の登場シーンはジブリ作品の常套表現とも言える。緑に覆われた狭い道を、少年を乗せた車が走っていく。この道はやがて一台の軽自動車によって進入を阻まれる。そして、そこで少年は初めて小人の姿を目にする。行き止まる道の先が物語の舞台となる表現は「千と千尋の神隠し」や「丘の上のポニョ」と重なる。

主人公は明るく好奇心が一杯で生命力を持った少女。ジブリ作品でそんな少女が出てこない作品なんてありえない。ナイーブで内省的な少年がそんな少女の相手役だというのも、何回となく繰り返されている。思慮深く家族を暖かく導く父親像と、ちょっと心配症だが家族の為に家のきりもりに励む母親像もしかり。

室内の描写、瑞々しい庭の植物、虫や鳥、動物達の動きの細やかな表現も、さすがの完成度。丁寧に描かれた動きや表情の繊細さに、日本のアニメーションの水準の高さを十分堪能させてもらえる。

今回の作品のメッセージは、かなりストレートなものになっているような気がする。このストレートさに、企画者の現代社会に対する強い危惧を感じるのは裏読みしすぎだろうか。もう、何重ものファンタジーの覆いの裏に隠して置いたら、伝えたいものが伝わらないのではないか?そういう焦りさえあるように思えて仕方ない。

「かり」に行くというセリフが出てきたとき、「狩り」か?と一瞬思った。しかし、アクセントが違う。しばらくして「かり」が「借り」であることが明かされる。作品の題名にもなっているから、この言葉がキーワードであることが物語の早い段階で提示される。物語が進むにつれ、小人たちが「借りる」と称する行為が、どういうものであるかが明かされるのであるが、この屋に住む家政婦ハルの言葉は、その行為の一方の側面をはっきりと示す。それは「盗む」ということだ。小人たちは「借りる」といい、人間ハルは「盗み」という。人間は自然からいろいろなものを得て生活している。そのことを「借り」ているととらえるのか、それとも「盗んでいる」ととらえるのか?そんな問いかけが聞こえてくる。

人間の傍で人間が大した価値を見出さないようなものを利用して生きている彼らの存在が先細って行く。では、有り余るものに囲まれた人間は、どうなのか?病気の少年は生きる気力を失いかけている。そんな少年に、小人のアリエッティは「それでも生きのびなければ!」と言う。

アリエッティのこの言葉は彼女自身の言葉ではない。この言葉は、彼女の父親の言葉である。しかし、彼女はなんの疑いもなく、はっきりとこの言葉を口にする。私はここに注目する。14才の少女がどれだけ自分自身の経験をもとにこんな言葉を言えるだろうか。言えるはずがない。だが、彼女が迷いなくこの言葉を口にする。それができるのは父親への絶対的な信頼があるからだ。その言葉が発せられる前に丁寧に描かれたものを見ればそれがわかる。家族の暮らしを成り立たせる為に父親が体を張って「借り」てくる行為をアリエッティは目の当たりにしている。

家族とは一体何だろう?家族を家族として成り立たせているもの。それは日々の生活である。生活とは何か?日々の糧を得、食事をし、暮らしの中で必要な作業を一緒に行うこと。当たり前のような事が、今失われつつある。

もうじき50に手が届く私の子供の頃は、共働き家庭の子供は家庭内労働力の一端を担っていた。家電も少なく、家事を回していくには子供の手も借りなければならなかった。高度成長期に入り、専業主婦が当たり前になってから、子供は家庭内労働の役割をある意味奪われていった。

○○屋さんというものが町の至るところにあった。肉屋さんでは肉を加工していたし、魚屋さんでは魚をさばく姿が見られたし、豆腐屋さんでは、豆腐を切ったり揚げを作ったりする工程を目にすることができた。物の裏側にそれを作る人がいると自然に知ることができた時代だった。

今更あの時代に戻れないのは分かっている。昔が全て良かったなんて絶対に言えない。
今より生活は貧しかったし、いろいろ理不尽なことも多かった。女性の地位だって今よりもっと低かった。

分かっているけれど、生活に必要な様々な技術が子供の目の前から消えていく。人間が生きていく為に必要な働き糧を得るという行為が、子供達に伝わっていかない。それでいいのか?そんな焦りを私のような年齢ですら感じている。もう一世代上の宮崎氏や鈴木氏はもっと感じているに違いない。

日々働き糧を得て生活を成り立たせていく。大人は時に命がけで糧を得て、子供を育てていく。そして、子供はそのことを知り、いつか自分も大人としてその役割を担っていくと思い定めなければならないはずなのだ。だが、今その事を子供にどうやって分からせていけばいいのだろう。家庭や地域の中で何かを生産するという行為がどんどん失われていっている。お金を出せば何でも買うことができる。でも、お金を稼ぐという事がどんなことなのか、子供にきちんと伝えられているのだろうか?

子供が大人へと脱皮していく過程に何が必要なのか。この作品はかなりストレートに表現しているように思えてならない。小人の生活はスケールこそ違えど人間の暮らしに他ならない。

サイズばかり大きくなってしまった現代の人間の生活と小人の生活を対比させることで、もう一度考えてみて欲しいと問いかけられているような気がした。




鑑賞日 2010年5月2日(日)
場 所 MOVIX さいたま
監 督 ティム・バートン 
製作国 2010年
製作年 アメリカ
原 題 Alice in Wanderland

娘はティム・バートンの大ファンなのである。娘は彼の世界観がたまらなく好きだとのたまう。素直じゃないというか、ちょっとひねったものの方が好きなんでしょうなあ。ということで、今回は娘に連れられて3D字幕版で観賞。

3D初体験!眼鏡の上に3D眼鏡をかけるというのは、ちょっと面倒でしたが、確かに飛び出す絵本のようで迫力満点。しかし、終了後ちょっと頭が痛くなってしまった。もともと人間は左右の目に映る映像を脳で処理して立体視をしているわけだけれど、3Dはそれを更に強調するような形なのだろうと思う。ということは、脳は3D映像をみているとき、一生懸命映像処理をしているのか?確かに立体感はすごいけれど、眼鏡の二重掛けは重たいし、むりむり3Dで見なくてもいいかなって思ってしまった。
それに、眼鏡代なのだろうか、入場料が300円高い2100円。うーん・・・。

「不思議の国のアリス」をティム・バートンがどんな風に描くのか?
さすがにディズニー配給とあって、彼の作品にしてはおとなしい感じがした。映像はさすがに面白かったが、ラストは蛇足っぽかった。良い子のディズニーとしては、ちゃんと明るいオチをつけない訳にはいかないのか?

私としては、一番よかったのは「赤の女王」様!その存在感、演技力!さすがティム・バートンのパートナーだけあるって感じ。悪役なんだけれど、異形に生まれたばっかりに、ひねくれちゃった感がありありで、最後の仕打ちはかわいそうすぎると同情さえしてしまった。
対する「白の女王」様ですけど、きれいな顔して、本当に変なのはこっちじゃないだろうか?と思わせる演技がまたよろしい。きれいなんだけど、どこか変!それを出せるアン・ハサウェイはタダものではない。
マッド・ハッタ―役のジョニー・デップ、白塗りの奇妙なメイクだけど、彼はやっぱり魅力的だ。デジタル処理で目が少し大きくされているらしい。それにしても、ハンサムなのに、ここまでヴィジュアルを崩して、それでも、魅力的ってとんでもない役者なんだなあ・・・。

CGで作られたキャラクターたちも、すごく面白くて、特にチャシャ猫はかわいかった!

娘はもう一度友人と見ると言っていました。ディズニーじゃなかったらもう少し過激なラストになったのだろうか?ちょっとラストが物足りなかった・・・・、と思うのはやっぱり私が年をとったせいでしょうかしら。

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