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映画鑑賞記録
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観賞日 2010年7月25日(日)
場 所 TOHOシネマズ府中
監 督 米林 宏昌
企画・脚本 宮崎 駿
脚 本 丹羽 圭子
制作年 2010年
制 作 スタジオジブリ


2年ぶりのジブリ作品。前回の「丘の上のポニョ」に比べると、とても分かりやすい作品のように思う。作品のアウトフレームは今まで積み上げられてきたジブリ作品の匂いが濃厚だ。

主人公の少年の登場シーンはジブリ作品の常套表現とも言える。緑に覆われた狭い道を、少年を乗せた車が走っていく。この道はやがて一台の軽自動車によって進入を阻まれる。そして、そこで少年は初めて小人の姿を目にする。行き止まる道の先が物語の舞台となる表現は「千と千尋の神隠し」や「丘の上のポニョ」と重なる。

主人公は明るく好奇心が一杯で生命力を持った少女。ジブリ作品でそんな少女が出てこない作品なんてありえない。ナイーブで内省的な少年がそんな少女の相手役だというのも、何回となく繰り返されている。思慮深く家族を暖かく導く父親像と、ちょっと心配症だが家族の為に家のきりもりに励む母親像もしかり。

室内の描写、瑞々しい庭の植物、虫や鳥、動物達の動きの細やかな表現も、さすがの完成度。丁寧に描かれた動きや表情の繊細さに、日本のアニメーションの水準の高さを十分堪能させてもらえる。

今回の作品のメッセージは、かなりストレートなものになっているような気がする。このストレートさに、企画者の現代社会に対する強い危惧を感じるのは裏読みしすぎだろうか。もう、何重ものファンタジーの覆いの裏に隠して置いたら、伝えたいものが伝わらないのではないか?そういう焦りさえあるように思えて仕方ない。

「かり」に行くというセリフが出てきたとき、「狩り」か?と一瞬思った。しかし、アクセントが違う。しばらくして「かり」が「借り」であることが明かされる。作品の題名にもなっているから、この言葉がキーワードであることが物語の早い段階で提示される。物語が進むにつれ、小人たちが「借りる」と称する行為が、どういうものであるかが明かされるのであるが、この屋に住む家政婦ハルの言葉は、その行為の一方の側面をはっきりと示す。それは「盗む」ということだ。小人たちは「借りる」といい、人間ハルは「盗み」という。人間は自然からいろいろなものを得て生活している。そのことを「借り」ているととらえるのか、それとも「盗んでいる」ととらえるのか?そんな問いかけが聞こえてくる。

人間の傍で人間が大した価値を見出さないようなものを利用して生きている彼らの存在が先細って行く。では、有り余るものに囲まれた人間は、どうなのか?病気の少年は生きる気力を失いかけている。そんな少年に、小人のアリエッティは「それでも生きのびなければ!」と言う。

アリエッティのこの言葉は彼女自身の言葉ではない。この言葉は、彼女の父親の言葉である。しかし、彼女はなんの疑いもなく、はっきりとこの言葉を口にする。私はここに注目する。14才の少女がどれだけ自分自身の経験をもとにこんな言葉を言えるだろうか。言えるはずがない。だが、彼女が迷いなくこの言葉を口にする。それができるのは父親への絶対的な信頼があるからだ。その言葉が発せられる前に丁寧に描かれたものを見ればそれがわかる。家族の暮らしを成り立たせる為に父親が体を張って「借り」てくる行為をアリエッティは目の当たりにしている。

家族とは一体何だろう?家族を家族として成り立たせているもの。それは日々の生活である。生活とは何か?日々の糧を得、食事をし、暮らしの中で必要な作業を一緒に行うこと。当たり前のような事が、今失われつつある。

もうじき50に手が届く私の子供の頃は、共働き家庭の子供は家庭内労働力の一端を担っていた。家電も少なく、家事を回していくには子供の手も借りなければならなかった。高度成長期に入り、専業主婦が当たり前になってから、子供は家庭内労働の役割をある意味奪われていった。

○○屋さんというものが町の至るところにあった。肉屋さんでは肉を加工していたし、魚屋さんでは魚をさばく姿が見られたし、豆腐屋さんでは、豆腐を切ったり揚げを作ったりする工程を目にすることができた。物の裏側にそれを作る人がいると自然に知ることができた時代だった。

今更あの時代に戻れないのは分かっている。昔が全て良かったなんて絶対に言えない。
今より生活は貧しかったし、いろいろ理不尽なことも多かった。女性の地位だって今よりもっと低かった。

分かっているけれど、生活に必要な様々な技術が子供の目の前から消えていく。人間が生きていく為に必要な働き糧を得るという行為が、子供達に伝わっていかない。それでいいのか?そんな焦りを私のような年齢ですら感じている。もう一世代上の宮崎氏や鈴木氏はもっと感じているに違いない。

日々働き糧を得て生活を成り立たせていく。大人は時に命がけで糧を得て、子供を育てていく。そして、子供はそのことを知り、いつか自分も大人としてその役割を担っていくと思い定めなければならないはずなのだ。だが、今その事を子供にどうやって分からせていけばいいのだろう。家庭や地域の中で何かを生産するという行為がどんどん失われていっている。お金を出せば何でも買うことができる。でも、お金を稼ぐという事がどんなことなのか、子供にきちんと伝えられているのだろうか?

子供が大人へと脱皮していく過程に何が必要なのか。この作品はかなりストレートに表現しているように思えてならない。小人の生活はスケールこそ違えど人間の暮らしに他ならない。

サイズばかり大きくなってしまった現代の人間の生活と小人の生活を対比させることで、もう一度考えてみて欲しいと問いかけられているような気がした。




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鑑賞日 2010年7月19日(月)
場 所 ル・シネマ
監 督 パスカル・ボニゼール
脚 本 同上
原 作 アガサ・クリスティー 「ホロー荘の殺人」
製作国 フランス
製作年 2008年 
原 題 Le Grand Alibi

アガサ・クリスティー生誕120年記念作品とのこと。ご多分にもれず、アガサ・クリスティーのミステリーの何冊かは学生時代に読んでいるはずだが、原作となった「ホロー荘の殺人」は読んでいない。

ミステリーなので、ネタばれをしては申し訳ない。筋書きはあえて書かないことにしておこう。

種明かしをされてしまえば、やっぱりねえというオチなのですよ。でも、そこに至るまでの登場人物たちの心の葛藤や機微というところが見どころなんでしょう。

殺人事件の現場となったのは、上院議員アンリ・パジェスの離屋ありプールありの美しいお屋敷。この上院議員夫婦のやりとりがなかなか面白い。シリアスな場面なのに、ついクスッと笑ってしまう。

ボンドガールを演じた事もあるカテリーナ・ムラーノ演じる、イタリア人女優さんもなかなかいい根性していて面白い。さすが元ボンドがールだけあって、肉感的な魔性の女っぷりがすごい。横顔が、なんと言うか、ギリシア・ローマ型なんですよ。額からまっすぐ通る鼻筋!彼女の運転手(兼愛人?)の容姿もまた、イタリアン~な感じでなんとも濃い。

マチュー・ドゥミ(ジャック・ドゥミ監督の息子!)が演じる狂言回し役のフィリップは、アル中気味で不安発作もちの情けない作家。この彼のなんとも情けない感じがまたよろしい。

正直、ミステリーとしての魅力はどうかなあと思いましたけど、登場人物の複雑な人間関係から生まれる愛憎劇っていう点ではまずまずかも。

それにしても、アガサ・クリスティーってイギリスの作家でしたよね?まあ、聖書とシェイクスピアの次に良く読まれている作家と言われるほどだそうですから、おフランスで映画化されてもおかしくはないのでしょうけど・・・・。



観賞日 2010年7月11日(日)
場 所 銀座テアトルシネマ
監 督 トーマス・アルフレッドソン
制作年 2008年
制作国 スウェーデン

初めて見るスウェーデン映画。そして、ヴァンパイア映画。スウェーデンとヴァンパイアという組み合わせがとっても意外な感じがする。

少女のヴァンパイアと言えばまず思い出すのが、萩尾望都さんの名作「ポーの一族」のメリーベル。メリーベルに恋する少年と言えば、金髪の少年アラン。

主人公オスカー(劇中、オスカルって呼ばれているのに字幕がオスカーになっているのはなぜだ?スウェーデン国王にオスカル1世・2世がいるのだから、オスカルでいいじゃないか!あまりに有名なマンガキャラクターが存在するせいだろうか?)はプラチナブロンドに水色の瞳、透けるように白い肌に赤い唇のいかにも北欧的美少年!ヒロインのエリは黒髪にグレーの瞳の美少女と言うより何とも言えぬ魅力をかもし出している少女である。

すでにハリウッドでリメイクされ、この秋全米公開になるそうだが、この映画の持つリリカルで繊細で青いエロチシズムみたいなものをハリウッドで表現できるのだろうか?

この映画はなんといってもオスカー役とエリ役の子役がすごくうまい!特にエリ役の子は撮影当時12歳というのに、200年間生き続ける少女の何とも言えないふてぶてしさと哀しさを併せ持った表情をちゃんと出しているんです。ただきれいっていうのではなく、多分、幾人もの男を虜にして自分を守らせてきたんだろうだろうなあ・・・って納得させられるまがまがしさ!!

クライマックスのプールのシーンは思わず「あ!!!」と声が出てしまうほど衝撃的。

オープニングのシンシンと降り続く雪のシーンから、ラストのオスカー少年の幸せそうな微笑みまで、画面に引きつけられてしまいました。

一緒に映画を見た某嬢からの情報によると、ヴァンパイアは他人の家に許可なくして入ることができないそうです。このお約束を知らないと、ちょっとわからない場面があります。日本の怪談でもお約束ごとってありますが、ヴァンパイア映画を見るにもそういうものがあったのね~。

ハリウッドリメイク版はどんな風になるのだろうか?見てみたいと思いつつ、とんでもないものだったらどうしよう?舞台設定やオスカーとエリの設定をどうするのかなあ・・・?まあ全米での興業成績が良ければ、来春あたり日本でも公開されるかもしれません。

鑑賞日 2010年6月19日(土)
場 所 岩波ホール
監 督 ローラン・カンテ
製作年 2008年 フランス 第61回カンヌ映画祭パルムドール受賞


この映画には一切BGMが入っていない。入念に練られた「作品」でありながら、ドキュメンタリーと錯覚させられそうになるほど、リアルに仕上がっている。

パリにある公立中学校の一クラスでの出来事を追っていく。明確な物語を描くというより、フランスの教育現場が抱える様々な問題や子供達が置かれている現実を淡々と描いているように感じた。

そもそも公教育という概念が普及したのは18世紀後半からだ。19世紀に近代的な国家という概念が生まれ、同時に国民を均質化し国民としての自覚と結束を促すため「教育する」公教育も普及していく。その前までは、主に宗教団体が良き信徒を作るために行うものであり、私的なものでしかなかった。

日本も明治維新後義務教育が制度化され、国家による公教育が普及していく。そもそも「教育」の主体者とは誰なのだろう?18世紀後半、日本は世界でも最も識字教育が普及した国だったという。寺子屋が普及し、親たちは子供との相性を見極めながら、寺子屋の師匠に子供を預けたという。

現役高校教師の友人と一緒に見て、観賞後、今普通の高校で起きているさまざまな出来事を聞いた。学校現場で起きている事は、それは子供だけの問題ではなく、親たちの問題や社会の問題がそのまま子供達に投影されているとしか思えない。

教育は学校でなされるものと思いこんでいすぎはいないか?子供達は家庭の中でも、社会の中でも教育されていく。

この映画は、何も結論を語らない。そこにある現実を、より整理された形で見せてくれるだけだ。その現実から何を読み取るのかは見る者にゆだねられている。

ラストの突き放し感はやっぱりフランス映画。
完全にBGMがない映画は不思議な感覚だった。
音楽が持つ感情作用というものを改めて感じたりもした。
観賞者は教育関係者とかが多いのだろうか?
やたらと上映を待つ時間に本を広げている人が多くてびっくりした。






観賞日 2010年6月12日(土)
場 所 銀座テアトルシネマ
監 督 ジェーン・カンピオン
制作年 2009年
制作国 イギリス オーストラリア

まさに動く少女漫画!な映画でした。ジョン・キーツは19世紀イギリスを代表するロマン派の詩人。わずか25歳でイタリアで客死した彼のかなしくも美しい愛の物語です。イギリスの田園風景がとても美しかったです。キーツの恋人ファニーが着る衣装はエンパイアスタイルの名残を残すハイウエストのシルエットでなかなかかわいい。当時のイギリス中産階級の生活スタイルも非常に興味深かったです。キーツ役ベン・ウィショーはものすごいハンサムではないけれど、ナイーブで繊細な雰囲気が出ていていかにもキーツらしい感じだし、ファニー役のアビー・コーニッシュのいかにも健康な女の子感も良かった。(こう胸板がばん!ってしているところがいかにも西洋人体型なんです!)ファニーの弟・妹役の子たちは本当にかわいくてうっとり。しかしながら、もうすっかり世間の荒波にもまれてしまった私には、19世紀のロマン派は青すぎるのであります。彼らの純粋な愛に涙しつつも、心のどこかで醒めてしまっている自分がいるんですよ。若いカップルがデートで見るなら本当にロマンチックで良い映画と思います。オバサンな私は過ぎ去った青春の恥ずかしくも甘酸っぱい記憶を引っ張りだすにはちょっと抵抗を感じた次第。

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