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映画鑑賞記録
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鑑賞日 2010年9月11日(土)
場 所 ル・シネマ
監 督 マイケル・ホフマン
脚 本 同上
製作年 2009年
製作国 ドイツ・ロシア
原 題 The Last Station

高校時代に集中的にレフ・トルストイの作品を読んだ時期があった。恥ずかしながら、代表作「戦争と平和」は挫折してしまったが、「復活」「アンナ・カレーニナ」はなんとか読了したと思う。「幼年時代」「少年時代」「青年時代」「イワンのばか」「光あるうちに光のなかをすすめ」「クロイツエル・ソナタ」は気に入って何度も読んだ。トルストイが晩年家出をして鉄道の駅で死んだという話は知っていたが、その原因の一つが奥さんとのトラブルとは知らなかった。

トルストイ最晩年を取り上げたこの映画、半世紀もの結婚生活の果てを迎えるトルストイ夫妻と、若いワレンチンとマーシャの恋を通してなかなか考えさせてくれるものだった。夫婦とはなんぞや?人にとっての愛とは?現実と理想とは? 簡単に答えが出ない問いばかりである。

人生は一筋縄ではいかぬもの。トルストイは世間的には偉大な文豪だったが、妻ソフィアにしてみれば、それは彼の一面に過ぎず、愛する夫であり、子供たちの父であった。作家としてのトルストイを支え続けた彼女だからこそ、年をとるに従って、自らの思想的な理想を追い求めるようになった彼との間に矛盾が生じてしまったのだろう。はっきり言って彼女が結婚した時、トルストイは作家だった。作家の彼と結婚したつもりだったのに、いつの間にか、夫は思想家に転向してしまったのだ。約束が違う!!と言いたくもなるだろう。挙句の果てに夫婦二人三脚で書いて来た作品の著作権を放棄するなんて言われた日には、怒り狂うのもよくわかる。ソフィアの言動は、はっきり言ってそこまでやるか?と思うものだが、彼女の気持ちは痛いほどわかる。彼女は彼を愛していて、自分を見て欲しいし、自分の家族を守りたいのだ。だが、トルストイは妻を愛してはいるけれど、自分の理想を追求もしたい。ここに男と女の間にある発想の違いを感じる。

どちらの言い分も間違ってはいないのだけれど、歩み寄るのも難しい。人生はそんなことの連続だ。特に男と女の間には、深くて暗~い川があるものなのである。それでも、求め合わずにいられない。

熟年夫婦で見に行ったら、それぞれ複雑な思いを感じそうな作品。


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鑑賞日 2010年9月5日(日)
場 所 岩波ホール
監 督 マルタン・プロヴォスト
製作年 2008年 フランス・ベルギー・ドイツ合作映画
2009年 フランス・セザール賞7部門受賞作品

6月に岩波ホールで予告編を見て、ぜひ見たいと思っていた。
実在の画家セラフィーヌ・ルイ(セラフィーヌ・ド・サンリス)とドイツ人画商ヴィルヘルム・ウーデの交流を描いた作品である。

何かを創造する人間というのは、ある意味自分でも御しがたい衝動のようなものを持っているのではないかと思うことがある。自分の意思で行うと言うよりも、まさに天から与えられた力によってそうせざるおえないようになっているというか・・・。

セラフィーヌがもし、ウーデと出合わなかったらどんな人生を送っただろう。セラフィーヌが絵を描いたのは、名誉やお金が欲しかったわけではなかったろう。純粋に自分を慰めてくれる草花や果物を描きたかったのだと思う。ウーデがその才能を見出し、作品を世に送り出す為に援助したわけだが、その援助が彼女の危うい均衡を壊してしまったようにも思えた。セラフィーヌの作品には不思議な揺らめきを感じる。

見ていると少し怖くもある。それはまるで万華鏡のようでもあり、顕微鏡で見る細胞のようでもある。彼女自身も自分の描いた絵が怖いという。それは彼女自身が自分の意思というより、見えざる手によって駆り立てられた結果の絵だからだろうか?

神を信じ、守護天使の声を聞いて絵を描いたという彼女が、世俗人の思惑や変化する経済状況など頓着できるはずもなく、彼女は精神の均衡を失い、ついには絵を描く事が出来なくなってしまう。
彼女の絵は狂気に陥る素地があったから描けたものなのか、それとも、ウーデとの出会いによって、彼女が描く事にのめり込み過ぎて狂気を誘発してしまったのかは分からない。しかしながら、彼女が神を讃える歌を歌いながら、精根を傾けて描く姿は壮絶で胸が熱くなる。

彼女の名前セラフィーヌは、セラフィム=熾天使に由来するものだろう。熾天使とは、天使の九階級のうち最上とされ三対六枚の翼を持ち、2つで頭を、2つで体を隠し、残り2つの翼ではばたく。神への愛と情熱で体が燃えているため、熾(燃える、などの意)天使といわれる。彼女はその名の通りの人生を送ったのだなと思った。

激しく感動するというよりも、じわじわと胸が熱くなる、そんな作品だった。
鑑賞日 2010年8月29日(日)
場 所 ル・シネマ
監 督 ブルース・べレスフォード
製作年 2009年
製作国 オーストラリア
原 題 Mao’s Last Dancer

実在のバレエダンサーの自伝を元にした映画。予告編を見て、なかなか本格的なバレエシーンもあるということで見てみることにした。主人公リー・ツンシンは1961年、中国山東省の小さな貧農の7人兄弟の6番目の子として生まれる。中国は1979年から人口抑制の為に一人っ子政策推し進めたが、その前は「産めよ増やせ」と全く逆の政策をとっていた。人口が多いことが国の力になると考えていたからだ。だが、人民公社制度はうまくいかず、1960年代後半から1970年代前半の約10年間、中国は文化大革命という嵐の時代にあった。映画の中にも、この時代の様子が描かれている。この「文化大革命」がどれほど中国の人々に大きな影を落としたかを真の意味で今の私達が理解することは難しいと思う。

日本国憲法14条で「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とされている。基本的にどんなに政府の政策批判をしても逮捕されたりすることはない。ましてや、親が金持ちだったとか、親戚に学者がいるとかいうことで、逮捕されることも批判されることもない。ところが、「文化大革命」の時代、政府批判をしただけで、殺されたり、辺境の収容所に送られ強制労働させられたりしたのだ。映画の中でも主人公の家柄が問題にされる場面がある。当時、富裕な家やインテリは出自が「悪い」とされた。信じられないけれど事実である。たくさんの知識階層が殺され、少数民族地区でも伝統的宗教建造物が破壊され僧侶達が粛清された。そういう背景を知らないと、この映画の中の主人公がアメリカに亡命する選択が、どれほどの苦悩の末に選びとられたものかがわからない。

何か人知の及ばぬ大きな力に選ばれた人間というものがいるのかもしれないとときどき思う。中国のド田舎に生まれた主人公が、まず北京の舞踏学院の生徒として選抜された事も、その後、彼の才能を見抜いた指導者に励まされ努力したことも、アメリカに渡ったことも、普通に考えたら在りえないことなのだ。多くの偶然と、主人公の努力と、様々な人との巡り合いが、彼の人生を導いて行く。

非凡な人生に人は驚き、その成功を賞賛する。しかし、その裏にある苦しみや哀しみを理解することは難しい。主人公の最初の妻のセリフがとても悲しい。

「あなたは私を愛しているから結婚したの?それとも、アメリカに残りたいから?」
「もちろん君を愛しているからだよ」

最初の妻はアメリカ人であり、まだとても若かったから、彼が背負っているものを理解しきれなかったのだろう。しかし、彼女と巡り合った事で主人公は、自由のなんたるかを知ったはずだ。

バレエシーンはバレエ団の協力を得て撮影されたもので、本格的で見ごたえがある。現役のプリンシパルが演じる主人公も魅力的だ。様々な見どころのある映画だったと思う。

鑑賞日 2010年8月17日(火)
場 所 MOVIX さいたま
監 督 リー・アンクリッチ
製作年 2010年
製作国 アメリカ
原 題 Toy Story 3

ジブリとピクサーはとかく比較されるが、今年は「アリエッティ」と「トイストーリー3」が同時期公開となっている。2作をさほど間を開けず見たのだが、それぞれに特徴があってなかなか面白いと思う。

ジブリ作品は海外でも公開されるのだろうけれど、主なマーケットはやはり日本なのだと思う。日本に生まれ、日本語を母語とし、日本の湿った空気の中で育った人間の感覚に依拠した表現が中心となっている。

セルアニメ2D作品とCGアニメの3Dという違いもあるけれど、両方の作品を見てまず感じたことは、キャラクター達の表情の作り方や感情の表し方が全く違うということだ。日本語以外の言葉を話し、全く異なる文化、気候風土に育った人間の感覚は、違って当然なのだと思う。しかし、これほど鮮やかに違うとは。

「借り暮らしのアリエッティ」は日本が舞台になっているし、小人の名前こそ西欧風だけれど、アリエッティもその両親もどう見ても日本人の行動様式なのだ。感情表現もアクションも淡々と地味なのである。ジブリ作品の中でも、特にそういった傾向の強い作品のように感じた。それは、もしかするとわざとそうしたのかもしれないと思われるほどだ。だから、感情を読みとる感度が低い人がみると、登場人物たちが今どんな感情を持っているのか、とても読みとりにくいものかもしれない。登場人物の表情の淡泊さに比べ、背景を含む自然描写や舞台となる家の佇まいのなんと繊細で緻密で雄弁な事だろう。もしかして、制作側の力点は、人物より圧倒的な自然や背景の方にあったんじゃないかとかんぐってしまうほどに。

では「トイストーリー3」は?と言えば、舞台はアメリカ、当然登場人物はアメリカ人だ。感情表現は明快、起伏にも富んでいる。ハラハラドキドキの場面展開は最初から最後まで飽きさせない。誰にでも分かりやすい感情の表現がそこにはある。分かりやすさというのが、世界中をマーケットにするにはやはり重要なのだと思わずにいられない。それにしても、バービーちゃんとケンのやりとりは笑えた。子供のおもちゃとは思えない大人のバカップルぶりなのである。特に、ケンの表情がいい。アホなあんちゃんっぽくて。そして、バズのモード設定が変えられた時の動き。私たちはフラメンコの動き=スペイン人と刷り込まれているのだな改めて認識させられる。日本人らしい動き、アメリカ人らしい表情。やはり根底にある者によって表現は違うのだなあと感じいる。

アンディ少年が青年へと成長し、おもちゃ達と過ごした時間を大切な思い出として心にしまい、訣別していく心情は万国共通のものだろうし、とてもきめ細かく表情も作られていて感動した。子供のしぐさや行動も、保育園の様子も、良く観察されて唸らされる。娯楽作品としては、どうもこちらの方に軍配が上がるように思う。

日本はガラパゴス化していると言うけれど、この世が全てアメリカナイズされてもつまらないと思う。単純明快もいいけれど、割り切れない曖昧で混沌としたものもやはり魅力的であるので。






観賞日 2010年8月7日(土)
場 所 新宿バルト9
監督・脚本 倉内 均
原 作 半藤一利 日本のいちばん長い夏(文春新書)
制 作 NHKアマゾンラテルナ
公式HP

まずは公式HPで映画の内容を確認していただきたい。

1945年8月15日、日本は戦争に負けた。それから、65年の歳月が過ぎた。この敗戦後(私は終戦という言葉はそぐわないと思っている。日本は戦争に負けた。だから敗戦というのが正しいと思っている。)日本は他国と戦争をしていない。日本がかつて、アメリカやイギリスを相手に戦争をしていたという事実を知らない若い世代も多いという。今年はこの節目の年と言うことで、例年以上に第二次世界大戦について取り上げた番組に力が入っていると思う。

昭和38年に開かれた座談会を再現するというスタイルで作られたこの映画、本当に考えさせられた。座談会の28人の出席者を現在の各界著名人が演じている。勿論、本職の俳優ではないし、テレビでおなじみの顔だから、ちょっと変な感じもある。しかし、途中、挿入される演者たちの話はとても率直でそちらも興味深かった。

私も、1960年代生まれだから、実体験として戦争を知っているわけではない。だが、太平洋戦争で召集され、スマトラ島で通信隊のトラック運転手として戦い、敗戦後抑留され幸運なことに7年後に無事復員することができた祖父の生の声を聞くことができた。そして、その祖父を待ち続けた曾祖母や祖母や母の経験、終戦当時15歳だった父親の体験を聞くことができたのだ。孫の誰もがその経験を聞かされたわけではなく、祖父母と近い関係にあった私が特に彼らの話を聞く機会に恵まれただけだ。

祖父の外地(敗戦前まで日本は海外に領土を持っていたのだ!!)での戦闘体験、働き手を召集され、年寄りと幼い子供を抱え、さらに都会から疎開してきた義妹家族の生活を厳しい農作業に耐え支えた祖母の生活、乗っていた商船が徴用され南太平洋で海の藻屑となった祖父の弟の悲恋話(彼には婚約者がいたが、その彼女も後を追うように病死したそうだ)。そして、敗戦後、昨日まで「国の為に死ね」と教えていた教師が、豹変する様を見、食べざかりにろくな食糧もなくいつもお腹をすかせ栄養失調でオデキだらけだった少年の父と、7年間も会えなかった父親の突然の帰還にただ驚き戸惑った母の記憶。

私は小学校1年生の時、給食で脱脂粉乳を飲んだ。脱脂粉乳は今ではスキムミルクとか低脂肪乳とか言われて健康に良いものとされているが、アメリカが貧しく栄養が十分に取れない日本の児童の為に、バターを取った後に残る脱脂粉乳をユニセフ経由で給食に提供したというものだという。私は脱脂粉乳を給食で飲んだ最後の世代だろう。はっきり言って、まずかった。少しでも美味しいと思ったのは小倉味とかココア味とか特別に甘みと香り付けがされた時だけだった。アルマイトのボールになみなみと注がれる脱脂粉乳を残さず飲むことを強要された。

近所の観音様の縁日で白い着物を着てタスキをかけた傷痍軍人の姿を見た記憶もある。恐らく、同世代でも同じ記憶を持つ人はそうは多くないだろう。もし、見ていたとしても、記憶に残らなかったかもしれない。祖父や祖母の口から話される戦争の生々しい記憶が、私の戦争に対する記憶スイッチの感度を上げたのだろうと思う。

本マニアの父親の蔵書にナチス・ドイツによるユダヤ人強制収容所の事が書かれた「夜と霧」や、子供むけに書かれた太平洋戦争関連の手記、従軍慰安婦、ソ連抑留者の強制労働、特高警察についてなどについて書かれた本があった。今思うと子供が読むには刺激的すぎるものもあったが、共働きの家庭で親の不在中に子供が読む本を規制する事など出来るはずがない。本当に近い人々から聞いた話と、戦争を記録した本が、私の中にあの「戦争」の記憶として引き継がれている。

敗戦の年に生まれた人もすでに65歳。実際に戦争を戦ったり、戦時下に生きた記憶を持つ人は当然のことながら70才以上の高齢を迎えている。あまりにつらく悲しい記憶なのだろう。自分の子供や孫に伝えることなく、鬼籍に入る人も多いと聞く。戦争は遠いものになり、日本人はかつて日本が他国と戦っていたという事実さえ忘れ去ろうとしている。

だが、世界では今もこの瞬間も、戦争が行われている。今日、平和なのだから、明日も平和だと信じて暮らしている私達は、明日本当に今日と同じ平和な朝を迎える事ができるのだろうか?明日は誰にもわからない。でも、少なくても、そう信じなければ生きていく希望が持てない。

私は、二人の子供に機会がある度に自分の身近な人から聞いた話を伝える努力をする。戦争は人間にとって最も愚かな行為である。しかし、戦争によって技術が進歩したという側面もある。人間は今もって「戦争」を根絶できずにいる。世界中のだれもが平和を願っている。人間が「戦争」を根絶できる日が来るかさえも分からない。だからこそ、人間の愚かさを肝に銘じ続け、流されて平和を手放してしまわないようにしなければいけないと思う。一度手放してしまった平和を再び取り戻すのがどれだけ困難であるか、この映画は教えてくれる。

「平和」は誰かに与えられるものではなく、自分たちで守るものだから、記憶をつなげていかなければいけない。自分が父母、祖父母、曾祖父母の作った社会に生きる存在であると同時に、今を生きる私達が、子、孫、曾孫の生きる社会を作る存在だという事を忘れてはいけない。平凡は人間は、道を切りひらくことはないかもしれないが、先人が拓いた道が再び閉ざされないように、踏み止まる努力をしなければいけないと思う。

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