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映画鑑賞記録
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鑑賞日 2011年6月26日(日)
場 所 新宿バルト9

2010年劇団☆新感線の舞台「薔薇とサムライ」を映像化したもの。舞台を映像化して見せるってどんな風になるんだろう?って思っていましたけど。とにかく面白かったです!舞台とも映画とも違うんですが、どっちの魅力も持っているっていう感じです。ストーリーは荒唐無稽。なんで石川五右衛門がイベリア半島で海賊の用心棒してるわけ?と一瞬思いましたけど、そんなことは見始めたらどうでもよくなっちゃいます。次々に変化する場面、パワフルな音楽、大人数が入り乱れての殺陣のシーン。息つく暇もないくらい引き込まれます。
役者さんが皆存在感があるんですよ。古田新太さん演ずる石川五右衛門のなんとキュートなこと。男は顔じゃない、スタイルでもない、男気よ~!!!!と叫びたくなるくらいカッコいい!アンヌを演ずる天海祐希さんは、もう涙出るくらいかっこよくて、美しくて、素敵~!こんな方がこの世に存在するなんて、信じらんない~って思いました。14:40分の回の最後の2席に滑りこんだので一番前の列だったんですけど、舞台でい言えばかぶりつき状態で、心の中でキャーキャー叫びながら見てしまいました。理屈抜きでわくわくドキドキ。途中15分の休憩をはさんで18:20まであっという間でした。

再演されたら絶対見に行きます!なにがなんでも生で見たい!でも、しばらく再演はないかなあ・・・・。DVD出たら買っちゃうかもしれません。



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鑑賞日 2011年6月18日(土)
場 所 TOHOシネマシャンテ
監 督 ジュリー・テイモス
製作年 2011年 イギリス

シェークスピア最後の作品と言われる「テンペスト(嵐)」の映画化作品。原作は高校時代に気に入って何度か読んでいる。空気の精エアリアル
が元ミラノ大公で魔法使いプロスペローに悪態をつきながら主の命令を見事にやりおおせるところや、プロスペローの娘、ミランダとナポリ王子ファーディナンドの美しい恋物語は、ちょっとひねくれた女子校生にもなかなか面白いものだったのだ。

この作品では、弟の姦計によりミラノ大公の座を奪われたプロスペローを大公妃プロスペラに置き換えている。そうした変更が加えられても原作の面白さは少しも損なわれていないし、返って面白くなっていると言えるかもしれない。エアリアルやキャリバンの関係がより自然に感じられる。

魔法によって引き起こされる嵐やエアリアルが活躍する幻想的なシーンをどんな風に映像処理するのかと思っていたのだが、これがとってもうまく処理されていて面白かった。時には、舞台演出のようなシーンもあって、リアルさと、舞台のような抽象的な構成美とが混じり合い、何とも不思議で美しい映画だった。

この物語のひとつの要素として、プロスペラの計らいにより引き合わされ恋に落ちる青年と乙女の恋があるのだが、この二人設定的にはどう考えても16・7歳と14歳。実際に演じているのはもっと大人俳優さんなんですけども、原作ではきっとそのくらいのはずだ。純粋で先の事なんか全然見えていなくて、目の前にある恋に夢中になっている少年少女の恋。ひねくれ切っているおばさんとしては、あまりの幼さに笑っちゃうくらいだが、いいなあ~こういう純粋さって・・・・。

作品の内容とは関係ないのだが、気になったのは、エアリアルの眉毛が麻呂眉のように短いこと。この眉が人ならぬ妖精である事をとても強く感じさせる。この感覚はおそらく日本人的感覚だろうなあと思ったのだが、帰ってから公式HPを見てみたら、この監督さん、日本の歌舞伎や浄瑠璃にも造詣が深いのだそうだ。なるほどね・・・、と腑におちた。エアリアルが走り回るシーンがあるのだが、「韋駄天走り」という言葉がふっと頭に浮かんでしまった。絵巻物で見た図柄にとても印象が似ていたからか?

この映画、原作を知っていて、なお且つ原作が好き!と言う人にはお勧めだが、まっさらで見ると、映像は楽しめるだろうけれど、ストーリー的には違和感があるかも知れない。





観賞日 2011年5月14日(土)
場 所 東京都写真美術館 1Fホール 
監 督 カール・ハートル
制作年 1942年 オーストリア
公式HP⇒
どうもモーツアルトと私は相性が良いらしい。5月15日にまで開かれているベッティナ・ランスの写真展を見に行こうと思って東京都写真美術館のHPを開いたら、この映画の情報が!先週写真展に行こうか、迷っていたのですが、今日にして正解でした!映画と写真展の両方を楽しむ事ができました。

モーツアルトとサリエリの確執を描いたアカデミー賞受賞作品では、モーツアルトは英語をしゃべってました。先日見た、彼のお姉さんを題材にした作品ではフランス語をしゃべってました。ダ・ポンテとの関係を描いた作品ではイタリア語を話していました。モーツアルトはオーストリア人なのに、ドイツ語で話している作品を見たことなかったのです。モーツアルトは、ドイツ語が母語だったはずですが、フランス語、イタリア語、フランス語、ちょっとは英語も話せたかもしれないし、ラテン語も勉強していたでしょう。たとえいろいろな言葉が話せたしても、やっぱり母語は違うと思うんです。気持ちの奥底を話すためにはやっぱり母語ですもの。


で、ドイツ語を話すモーツアルトを見て、そうか・・・モーツアルトってこんな風にしゃべっていたんだなって納得しました。ちょっと実物よりどうみてもハンサムで体格の良い俳優さんが演じてましたけど、モーツアルトのいつまでも子供っぽさが抜けない感じはよくでていました。

制作は今から65年前。第二次世界大戦が膠着状態にはいり、ドイツによるユダヤ人の強制収容所送りなどが始まった頃なんです。そんな時代にオーストリアはこんな映画を作っていたのですね。

題材はモーツアルトの最初の恋人アイロージアと妻コンスタンツェの間で揺れるモーツアルトなんですけど、ま~、洋の東西、今・昔にかかわらず、男ってやつは自分勝手ね~。初恋のアイロージアと妻コンスタンツェは姉妹。姉と妹を天秤にかけて言うことには、「妻は物わかりがいい女だから、きっとわかってくれる」って・・・・。駄目だよ~、モーツアルト君・・・・。まあ、最期はちゃんと妻のもとに戻るって事になるんですけど、本当にこんなことやっていたのだったら、死んだあと、共同墓地に付き添いもなく埋葬されたり、妻コンサタンツェに都合がわるい手紙なんかを処分されてしまっても、仕方ないかも・・・って思いますわ。

でも、モーツアルトがもし、品行方正で世知にたけた人間だったら、多分彼が遺してくれたような魅力的な作品は生まれなかっただろうなあとも思ってしまうのですよね。

時に残酷で、時に愛らしくさえ思える彼のあり方が、彼の作品の魅力の源泉なんだろうって思います。

モノクロでモノラルの作品は、今の凝りに凝った作品のような派手さはないけれど、人間のいつの時代にもな変わらぬ感情をゆったりと表現してなかなか味わい深いものでした。

観賞日 2011年5月7日(土)
場 所 ヒューマントラストシネマ有楽町
監 督 ピエール・トルトン
制作年 2010年 フランス

イブ・サン=ローランと言えば、50年にわたってファッション界をリードしてきたオートクチュール界の巨星である。ファッション・ブランドに疎い私だって知っている。クリスチャン・ディオールの急死により、21歳の若さでディオールを引き継ぎ、大成功を収めた彼が、その後どのような人生を送り、そして、この世を去ったのか、興味があったので見に行ってみた。

びっくり!彼ってゲイだったんですね。知りませんでした。映画は彼の公私ともにパートナーだったピエール・ベルジェ氏が、二人で集めた美術品の競売準備の過程を軸にイブ・サン・ローランの人生と、彼ら二人の関係について、多くの証言や写真で描かれていきます。

才能に恵まれ、成功と名声を得ながら、イブ・サン=ローランはまるで苦行者のようでした。彼には、彼を理解し守りいつくしむ人間が絶対に必要だったのだと感じました。さすがは、おフランス。アモールは同性とか異性とかもはや関係ないんですね。競売を終え庭を眺めているべルシェ氏の表情がとても複雑で胸を打ちました。人生のほとんどを一緒に過ごした存在を失っても、まだ、熱を帯びたようなまなざしの奥にあるのはなんだったのでしょうか。

観賞日 2011年5月7日(土)
場 所 ヒューマントラストシネマ有楽町
監 督 マイケル・マドセン
制作年 2009年 デンマーク、フィンランド、スウェーデン、イタリア/英語
公式HP 
浜岡原発を停止させる事を菅首相が中部電力に申し入れたという会見がありました。私は原子力の平和利用は医学の分野にのみ限るべきだと考えています。医学の分野において、正しく利用されるのであれば、その力は人類にとって非常に有益だからです。しかし、それ以外に利用しない方がいいと考えています。なぜならば、核分裂による膨大なエネルギーは人間の手に余るものだからです。

言うまでも無く、日本は唯一実戦で核爆弾を投下され、被曝した国です。今までに「被曝」を受けた土地や人々は日本の他にもたくさん存在します。アメリカ・ソビエト連邦(ロシア)・中国・インド・イギリス・パキスタン・北朝鮮は、核兵器開発の為に、核実験を何度も行っています。そして、兵器としてではなく、「平和利用」をしていたチェルノブイリ、スリーマイル島、福島第一などの原子力発電所のトラブルで放射能が拡散し「被爆者」が生まれているのです。

現代社会を支えるエネルギーをどうするのか?この50年間に人間が消費するエネルギーは爆発的に増大し、化石燃料の枯渇や温室効果ガスの問題が目前に突き付けられた時、原子力発電は、夢のエネルギーのように思われたでしょう。

原子力発電の本質とはなにか?僅かな量のウランから取り出される膨大な熱量で蒸気を発生させ、発電機のタービンを回し電気をつくるという事です。原子力発電所で利用されているのは、熱量であって放射線そのものではありません。そこが医療の現場での利用と全く異なる点です。医療においては、放射線そのものの性質を利用しているのですから、いわば代替がないものです。しかし、発電とは要するに何らかしらのエネルギーを用いてタービンを回し電気を起こすという事です。電気をつくる事は、人の力であっても可能です。自転車の電灯や手回しのラジオや懐中電灯が良い例です。もちろん人力で電車や工作機械を動かすほどの電力が賄えるはずがありません。しかし、「発電機を回す」それだけの事に、はたして原子力を利用する必要があるのか?そう思わずにいられません。

原子力発電は、確かに化石燃料のように、過去に蓄積されたエネルギーを使う訳ではありません。核燃料がただ熱量だけを人間に与えてくれるなら、夢のような素晴らしい燃料でしょう。しかし、放射能というやっかいなものが必ず発生するのです。匂いも色も味もしない放射能が何故問題なのか?それは生命の根幹である遺伝子を傷つけてしまい、生命の再生を阻害するからです。遺伝子は全ての生物が共通に持つものです。人間だけが滅びるなら、自業自得ですが、原子力エネルギー利用と全く利害関係のない生命まで道連れになるのです。

放射能を発生させる物質をそうでない物質に変える事は、現在の技術ではほぼ不可能だそうです。TVニュースで、放射能の除去を行うなんて言っていますけれど、それは放射能に汚染された物を別の場所に移動させているだけです。手や体の表面に付着したのであれば、洗い流すことで放射能物質を皮膚の表面から除去することはできます。しかし、洗い流した水には放射能物質が溶けているのです。放射能物質が消えてなくなるわけではありません。発電に必要な熱量を取り出し終わった核燃料は、放射性廃棄物となります。

放射性廃棄物は、延々と放射線を放射し続けます。いったい使用済みの核燃料をどうするのか?原子力発電所は稼働させる限り延々と使用済みの核燃料を排出し続けます。もしも、現時点で全ての原子力発電所を停止させたとしても、今までに出された放射性廃棄物は残ります。放射性廃棄物が放射能を出さなくなるまで長い時間がかかります。

この映画は、フィンランドにつくられている世界初の高レベル放射性廃棄物の永久地層処分場を取材したドキュメンタリーです。固い岩を削って作られる巨大システムは、10万年間保持されるように設計されているといいます。廃棄物が一定量に達すると施設は封鎖され、二度と開けられることはないように封印される予定です。100年先さえ見通せない私達がいったい10万年後を見通すことができるでしょうか。数千年の間にすら、地上の環境と人間の暮らしは大きくかわりました。10万年後、そこに暮らす人々に、危険性を確実に警告できる方法はあるでしょうか。5000前のピラミッドついてすら現代人は理解しきれないのに、10万年後の人類に残した情報は正しく伝わるのでしょうか?
核燃料を利用することを考えても、最終的な処分までは考えていなかったつけが今やってきています。日本にある原子炉が今まで吐き出してきた放射性廃棄物は本当に安全に処分されているのか?地震と火山の国である日本にフィンランドのような安定岩盤などあるのでしょうか?

原子力利用については、これから最終処分を含めて真剣に考えていかなければいけない時に来ています。感情論では解決できない問題です。エネルギー無しに現代生活は成り立ちません。問題はなになのか。解決の道筋について、自分の問題としてしっかり考えていかなければならないでしょう。
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