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映画鑑賞記録
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鑑賞日 2009年2月28日(土)
場 所 新宿バルト9
監 督 デビット・フィンチャー
製作年 2008年

『エリザベス』を見てから、ケイト・ブランシェットが気になっている。細面の知的でキツイ感じがたまらなくいい。めちゃめちゃ白い磁器のようなお肌も素敵。普通であれば、ブラッド・ピットが主演だから見に行こう、となるのだろうが、私の場合はケイト・ブランシェットが出ているから見に行こう♪なのです。(ブラッド・ピットも口元がもう少し締まっていればパーフェクトなんですけど、どうも、彼の口元ってダメなんです・・・・。ファンの方、ごめんなさい!!)

167分の長尺・・・の割にはぐっと来るものがない映画だったように思う。老人の体で生まれ、時間を逆行するかのように肉体は若返っていくベンジャミンの人生を、丁寧に追いかけているのだが、肝心のベンジャミンの心の声が聞こえてこない。特殊メイクや映像処理は、すごいと思うけれど、ありうべからざる不思議な体質を持って生まれたベンジャミンと関った人間達の葛藤も、そのように生れ落ちてしまったベンジャミンの心のうちも、あまりにも淡々と描かれすぎて良くわからないというのが正直な感想。
精神と肉体の関係にしても、もう少し納得がいくように描いて欲しかった。
物語の後半、40代半ばで丁度年齢と肉体が釣り合いが取れた一瞬を惜しむように、ベンジャミンとデイジーが過ごす場面がある。その後、ベンジャミンはデイジーと娘の元を去っていく。ベンジャミンはどんどん若返り、デイジーは年老いていく。10代の若者の肉体となったベンジャミンと初老に差し掛からんとするデイジーの邂逅の場面で、デイジーは自らの肉体の衰えをベンジャミンの前で嘆く。このとき不思議に思ったのは、デイジーはベンジャミンの何を見ていたのだろうと。ベンジャミンの肉体は、見た目は確かに10代かも知れない。しかし、彼の精神はデイジーとなんら変わらぬ初老の男なのだ。一夜の関係を結びながら、彼女はベンジャミンの精神に触れることはなかったのか?見た目に引きずられてしまう人間の愚かしさを描きたいのだろうか?それとも・・・?どうにも消化不良感の残る映画だった。
良い場面もたくさんあったのです。ケイト・ブランシェットはやっぱり私好みの美女だし、
幼いデイジーとベンジャミンが机の下でそれぞれの秘密を打ち明けあう場面は可愛らしかった。自分を捨てた父親を許すかのように水辺のテラスで日の出を待つシーンも美しかった。でも、何かが決定的に描ききれていないと思うのはなぜなんでしょう。

こういう場合、原作も読んで見ないといけないなあと思います。駅の本屋に売っていたので買ってみましょう・・・・。
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鑑賞日 2009年2月7日(土)
場 所 ル・シネマ (渋谷)
監 督 セドリック・クラピッシュ
製作年 2008年

映画を見るのは好きだけれども、俳優の名前が覚えられない。「この俳優さんは、どこかで見たことがあるけど・・・」と思いながら、名前が出てこない。俳優さんの顔と名前と出演作品データーが細かく記憶できる人はすごいといつも思う。
主人公のピエール役のロマン・デユリス、どこかで見たよなあ~と思っていたら、この人の主演作を見たことがあった。「ルパン」と「真夜中のピアニスト」 
「ルパン」を見たときに思ったこと、それはずばり、「うらなり瓢箪みたいな顔なのに、どうしてこんなにカッコいいんだ?!」と言うこと。決してイケメンではないのに、惹き付けられてしまうのは、恐らく、彼の目と佇まいがとても内省的な雰囲気をかもし出しているからだと思う。男は顔じゃない!!フランス映画をみるとそう思えるのが不思議。

このところフランス映画づいている。フランス映画のちょっと醒めた感じが好きだ。この作品の中では大事件がおきるわけでもなく、超人的なヒーローもヒロインもいない。俳優さんも女優さんも、目が覚めるほど美しいわけでもない。どこにでもいる普通の人々の日常が淡々と描かれる。
他人から見れば本当に些細な事でも、当事者にとっては大きな悩みの種だったりするのは日本でもフランスでも同じでも同じなんだなあ・・・と妙に納得させられてしまう。そんな悩みを抱えながら、何とか折り合いをつけながら精一杯暮らしていく人々。
いかにもフランス!と思わせる男女のやり取りに違いを感じることはあっても、その奥のつかみ所がないけれど確かに存在している感覚というものは、私にも理解できる。
2時間超の映画だが、美しいパリの風景も楽しめたし、見終わってなんとも暖かな気持ちにさせられる素敵な作品だと思う。
 特に印象に残ったシーンは窓からパリの街を眺める主人公の後ろ姿と、ラストシーンのタクシーの中から青い空を見上げる主人公の殉教者の法悦を思わせる笑顔だった。


余分なことだが、パリのポストが黄色をしていることや、遺灰がプラスチックの優勝カップみたいな容器に入れられていることや、アパートのエレベーターが普通のドアみたいに手前に引いて開けるようになっているということをこの映画で知った。ふんだんに出てくる街角のシーンを注意深く見ているともっといろいろな発見があるかもしれない・・・。
鑑賞日 2009年1月25日(日)
場 所 銀座テアトルシネマ
監 督 エリック・ロメール
製作年 2007年 

映画に詳しいわけではないのでエリック・ロメール監督がどれほどの巨匠なのかは知らないが、私はこの映画はとても素敵だと思う。何しろ、全編、効果音楽というものが入っていない。聞こえるのは、小鳥のさえずり、川の流れる音、木々の葉擦れ、人々が草を踏む音、衣擦れの音、恋人達の甘い溜息といった自然の音だ。画面いっぱいに広がる風景は、明るく清らかに美しい。
主人公「セラドン」役のアンディー・ジレはモデル出身とあって、さすがに端正な顔立ちと抜群のスタイル。立っているだけで一幅の絵のようである。一方「アストレ」役のステファニー・クレヤンクールもふわふわとした金色の巻き毛と、明るい青い瞳の清潔な美貌。とにかくめちゃくちゃきれいな青年と、美しい乙女達満載で見ているだけで眼福な作品である。
もし、燃えるように激しい恋の物語がお好きなら、この映画は退屈で仕方ないだろう。
ストーリーを言ってしまえばなんということのないお話。この映画の筋立ては、はらはらどきどきするようなものではなく、素朴な青年と乙女のちょっとした恋のすれ違いの話に過ぎない。スピーディー且つ緩急のある展開を望む人は、眠ってしまう可能性もある。

 だいたいもって、原作は17世紀文学サロン、特にパリの貴婦人たちの間で大流行した小説『アストレ』。5000ページもある大作だそうである。物語の舞台は5世紀、キリスト教化する前のガリア(フランス)という事になっている。まあ、要するに17世紀当時の人があくまでも想像した牧歌的な世界ということになる。主人公達の恋のすれ違いを巡り、「愛とはなにか」ということが会話を通してさまざまに論じられるのだが、この台詞がキリスト教以前の世界と言うことになっているにも関らず、とてもキリスト教的な「愛」を思わせる表現が出てくる。17世紀の上流階級たちの思考が現れているといってもいいだろう。それを現代の監督がそのまま使っているのが面白い。更に、シェイクスピアの作品に良く出てくる狂言回しのような役どころの人物がいたりして、こういった存在がお約束になっているのだなあと妙に納得してしまう。
 
 この作品の予告編等では大変官能的な作品のように表現されている。しかし、現代的で濃厚な大人の世界を期待したら、全くの拍子抜けとなるだろう。いうなれば、ここに描かれているエロティシズムは、人生の酸いも甘いも苦いも辛いも味わったご老人が、人生最後にこそ見たいと願う青春の瑞々しくも甘美で清潔なエロティシズム。
乙女達の薄物のスカートが透かせて見せる脚の影、ギリシャ風の肌をむき出しにした丸い片肩、惜しげもなく零れ落ちる白い乳房、日に透ける金色の巻き毛は確かに美しい。
若者の白い胸、すらりと伸びた脛、高い鼻梁に物憂げに伏せた睫毛。恋人達の抱擁も、絡めあう指先も、絡み合う視線も美しい。その美しさをひたすら堪能できる人ならば、きっと楽しめる作品と言えるでしょう。
 人生を折り返してしまった私は、とっても楽しむ事ができました。
 
鑑賞日 2008年11月8日(土)
場 所 渋谷 ル・シネマ
監 督 ジャスティン・チャドウィック
製作年 2008年 

コスチューム・プレーが好きだ。誤解する人はいないと思うが、コスプレではなく、costume play、時代衣装を着けて演じられる史劇のこと。
この映画の衣装はサンディ・パウエル。「恋に落ちたシェイクスピア」や「アビエイター」でアカデミー賞衣装デザイン賞を取っている。ヘンリー8世の宮廷画家だったハンス・ホルバインの肖像画を元に当時の衣装を再現している。これが非常に見事である。昔の絵に描かれた衣装が実際の人体に身につけられ動く姿はなかなか興味深い。アクセサリーや小物などもとても面白い。宮廷でのダンスシーンや女性の馬の乗り方、流産しそうになったメアリーの部屋の設え、出産シーンの産湯の盥、リネンの寝巻き、処刑シーンなどなど、細かい部分の描写がとても興味深く、ともすればストーリーよりそっちの方に感心が行ってしまった。
 ヘンリー8世はイギリス史上いろいろな意味で有名な王様であるし、ハンス・ホルバイン描くところのヘンリー8世の肖像はあまりに強烈で、一度見たら忘れられない顔である。正直言って、この映画のストーリー自体に大きな魅力を感じることはできなかった。なぜか?振り返って見ると、ヘンリー8世もアンもメアリーも美しすぎたからかもしれない。ヘンリー8世も美男にし過ぎてる。もう少し、癖のある俳優の方が面白かったように思ってしまう。
意外に気になったのが、ブーリン姉妹の母親の存在。劇中、彼女は財産を捨てて愛の為にトマス・ブーリンと結婚したという設定になっている。この母親なかなかいい味出している。キャサリン王妃も良かった。ちょっと年輪を重ねた女の味でしょうか。今回はちょっと斜に見てしまった感がありますが、いろいろな意味で楽しめたと思います。



鑑賞日 2008年10月25日(土)
場 所 新宿
監 督 滝田洋次郎
製作年 2008年 

 最近邦画が熱いらしい。映画産業全体が伸びているわけではないが、邦画と洋画の割合が変化しているのだという。洋画の大ヒットが難しくなり、邦画の堅調が目立っている。邦画のレベルが上がったのか、ハリウッド映画が魅力を失ったのか。私は日本人が映画に求めるものが変化したのではないかと思う。かつては映画を通して日本人は「夢」を見ていたのかも知れない。スクリーン上に映し出される歴史スペクタクル、美男美女の熱烈な恋愛、太古の地球、宇宙への旅・・・。

 それでは、今、映画に求められているものはなんだろう?それはおそらく「感情」なのではないだろうかと思う。現代社会は喜怒哀楽を素直に出すことを拒む。冷静に合理的に迅速に判断し行動することが求められる。しかし、人間は機械ではないからそんなに簡単にはいかない。「感情」が必要だ。「感情」は「共感」を欲する。一人では感情は生まれない。共感は一人ではできない。しかし、人と人とのつながりが希薄になっている今、日常の中で生き生きした。「感情」と「共感」をなかなか得にくくなっているのかも知れない。映画は二時間という短い時間の中にさまざまな感情を濃縮している。物語の中に没入し暗闇の中登場人物の感情に共感して笑い、怒り、悲しみ、涙を流す。映画館という暗闇のなかで、素直に感情を溢れさせることは、ある種の癒しでもあるかもしれない。

 どこの国の人だって、喜怒哀楽の感情を持っている。しかし、それぞれの文化の中で表現方法が違うし、ツボどころも違う。それぞれの文化のなかでツボどころが違って当たり前なのだ。日本に生まれ育った者にとって、日本の風景の中で自分達の隣に生きる人間達が繰り広げる物語のなかで生まれる感情の方が、分りやすく感じ取りやすいのはあまりにも当然なことだ。特に日本文化は繊細で細やかなものに強い愛着を持っている。当然、表現もそれに沿ったものになる。

 今、世界で日本発のサブカルチャーに注目が集まっている。そのことは少なからず、日本人自身の創造能力への自信を生み出しているかも知れない。欧米に追いつけ追い越せとがんばってきたけれど、所詮ベースが違うのだ。それに気がついてきたのかもしれない。日本には日本の感性があり表現がある。自分達が感じるものを感じていい。

 もちろん、排他的な自己完結に陥るのは良くない。しかし、自分のベースがどこにあるのか、自覚し、誇りに思うことは良いことだと思う。



 「おくりびと」は日本人が古くから受け継いできた死生観を見せてくれる。「死」をどのようにとらえるかは、そのまま「生」をどうとらえるかと言うことだ。死をめぐる感情は、生への感情でもある。
 人は誰もが死ぬ。自分で死後の後始末をすることはできない。誰かのお世話になるしかない。葬式は、その人の人生の総決算とも言える。そして、見送る人間にとっては、試しの場でもあるのではないか。自分はいままでどのように生きてきたか、どのように生きていくべきか。
 
 
現代では「死」は生活から遠ざけられている。TVの中では毎日のように殺人事件や有名人訃報が伝えられてはいる。だが、それは虚構の世界の出来事のようにしか感じることはできない。

 核家族化が進み、親戚縁者、地縁血縁、そういったものが薄くなって、自分と共に生活したの人間の「死」を経験することがとても難しくなっている。誰だって身近な人間を失いたくはない。「死」など経験したくはない。でも、「死」に接することによって、生者が学ぶものがあると思う。
闇雲に「死」を遠ざけることで、「生」すらも遠ざけてしまってはいないだろうか。

 私の子供時代の愛読書に家庭百科事典があった。冠婚葬祭の巻には、それこそゆりかごから墓場までのさまざまな儀式について、写真入で解説が載っていた。その中には当然葬儀の項目もある。この巻はとても気に入っていて、暇があると良く眺めていた。親戚が多く、比較的冠婚葬祭の儀式に頻繁に遭遇していたせいもあるかもしれない。

 父親がよく「お飾りをくぐる」という表現で年齢を重ね成熟した人間となることを表していた。お飾り=儀式という意味だろう。冠婚葬祭は人の人生のまさに節目だから、自分自身やさまざまな人間の冠婚葬祭に立ち会うということは、まさに人間そのもの成長であり、成長を促すものだということだろう。

 冠婚葬祭のなかで、葬式というのはもっとも重要なものではないだろうか。一人の人間に一度しかない。「納棺」という儀式があることは知っていたし、実際「納棺」の儀式も経験してきた。私の経験では全て身内の人間が行ってきている。だから、「納棺師」という専門の職業があることを知らなかった。映画の中でも「昔は身内の者が行ってきた」と言っている。だが、親戚が少なくなり、納棺の儀式を取り仕切れる人間が身内の中にいない場合、やはり専門の知識をもった人間が必要とされるようになったのだろうか。身内が行っても、納棺師が行っても、基本的な次第が変わるわけではない。湯潅をし死装束を着せ、死化粧をする。死出の旅の準備を一つ一つ行うことで、遺族はその「死」を確認していく。
 布団に寝かされていた状態から、死装束に改め、棺に納められたとき、その体は祭られるものに変わる。つくづく葬儀という儀式は良くできたものなのだと思う。この儀式を経ることによって、「死」を受け入れ生者は日常へと戻ることをはじめる。


 それにしても、山崎努と本木雅弘の所作の美しさには驚かされる。きっと実際の納棺師の指導を受けて、練習を重ねたに違いない。形として確立された動きは実に繊細で美しい。動作の一つ一つが合理的で無駄がない。死出の旅立ちを荘厳するのは立派な祭壇でもなく、飾られた花でもなく生を終えた体をいたわり慈しむ彼らの静かな献身であると素直に感じられる。納棺師が葬儀に立ち会うことはない。葬儀はかれらを必要としないからだ。彼らは身内だけのひっそりとした儀式の中でだけ重要な役割を果たし去っていく。

「死」に関る職業は矛盾した扱いを受けがちだ。映画の中でも主人公の妻は夫の職業を受け入れることができない。幼馴染の友人が主人公の仕事を知ったとたん、あからさまに彼をさけようとする。「死」に関るものから遠ざかることで、「死」そのものをないものとしているのが普通の感覚なのだろう。


・・・・以下、若干のネタバレがありますから、反転してあります。

 この映画で秀逸なのは食事のシーンに込められた、生と死の関係の描き方だ。まさに食事とは死を生に転換するもの。肉を喰らうということは、死をわが身に取り込むことだ。そしてそれを糧に自らの肉体を生かす。
 初めて遭遇した凄惨な仕事を負え、帰宅した彼の為に用意されていたのは「新鮮な鳥肉」それを見て嘔吐する主人公の小林。彼は流し台の前で妻の生に満ちた体にすがりつく。戸惑いながら自分を求める夫を抱きしめる。しかし、彼の職業を知った妻は妻は、彼に触れられることを拒み、彼の元を去る。小林は退職を申し出る。事務員は直接社長に告げるべきだと、小林を諭す。彼を私室に迎え入れた社長とのシーンはとても印象的だ。温室のように植物で埋もれた部屋で、社長は自分が納棺師になったわけを話す。そして、ふぐの白子を手でつかみ、「これは死体だ」と言い切り、「困ったことに美味いんだ」と口に運ぶ。それに応え、白子を喰らう小林。死を取り込み生きていくのが人間なのだ。小林はその後黙々とさまざまな物語を持った体を「納棺」していく。次第に「納棺師」としての技を磨き、自分の仕事に喜びを感じるようになる。ついには、クリスマスには山もりのフライドチキンを美味そうにくらい、指をねぶる。
 食事のシーンが、いかように主人公が己の職業を理解し、受け入れ、誇りとしていくのか、その裏にある生と死の関係性を浮き彫りにしていて面白い。それにしても、なんと男達が物を喰らうシーンと言うのはセクシーなんだろう。脳の食欲と性欲を司る部分は非常に近いという話を聞いたことがあるが、どちらも生を繋ぐ重要な本能なのだから、当たり前なのかも知れないが。

 実家に帰っていた妻が突然戻ってくる。妊娠を告げ、夫に転職を迫る。そこに突然の電話が鳴る。彼が通う風呂屋の女主人が突然亡くなったのだ。妻を伴い風呂屋に駆けつけ、彼は心を込めてその納棺に当たる。その姿を見た幼馴染の息子は、自分がかつて彼にとった態度を恥じてわびる。常連客の老人が、実は火葬場の職員だったことが知れた。老人は長い間、風呂屋に通い、風呂屋の女主人と心の交流を重ねている。彼はその手で女主人の体を火葬するのだ。風呂屋の女主人の息子であり、主人公の幼馴染は、母親の最後を見届けるために、ボイラー室を訪ねる。老人は「死とは門である」と語る。日々、門をくぐり人はこの現世を旅立っていく。やがては自分もその門をくぐるものなのだ。だからいってらっしゃいといって見送ると静かに語る。しかし、スイッチを押す指が振えている。そこに老人の心の葛藤が凝縮されている。燃え上がる炎に、慟哭する息子と、静かにたたずむ老人の姿を、小林とその妻はそっと見守る。妻はこのとき、夫の職業を理解したのだろう。

自分と母親を棄てた父親が死んだと連絡を受けた小林は、はじめは無視しようとする。しかし、女性事務員が子供を棄てた過去を語り、会いに行って欲しいという懇願する。小林は怒り拒絶し、事務所を飛び出す。そこには、駆けつけた身重の妻が立っている。彼は妻と共に、棺を持って父親の元へと車を走らせる。否定しようとしても、父親への思慕を夫が心に秘めている。そのことを妻は知っていた。夫が選んだ「納棺師」という仕事を受け入れた妻は、彼を無言のうちに勇気付ける。幼いときに別れ、顔すら記憶になかった父親の人生を納棺の儀式を一人行いながら、小林は受け入れていく。それを見守る、彼の子をおなかに宿した妻。生と死が繋がっていく静かで美しい場面で映画は終わる。
 
 
 2時間のうち半分は泣いていたかもしれない。しかし、それはとても温かい気持ちになれる涙だ。身近なものを失った人間も、悲しんでばかりはいられない。日常は待ってくれない。でも、ふとした瞬間に、既にこの世にはいない大切な人の思い出は鮮やかによみがえって来る。その瞬間、自分の中で、生者と死者の隔たりを感じることはない。いずれ、自分もそうして誰かの思い出になっていくだろう。

 見終わってとても優しい気持ちになれる良い映画だと思う。





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